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証明とは説得 [はじめての『尊号真像銘文』(その101)]

(4)証明とは説得

 客観性がいのちであるような真理(それが真理といわれるもののほとんどでしょう)は、自分がそれについてどう思おうと関係のない真理です。ガリレオ・ガリレイは教会に迫られて地動説を取り消しましたが、「それでも地球は動く」とつぶやいたと言われます。彼自身が取り消そうがどうしようが、そんなことはお構いなしに地球は動くのだということ、ここに客観的真理の真面目があります。
 さてしかし主体性がいのちである真理は、自分がそれによって生き、それによって死ぬことができる真理です。どれほど他の人にとって真理であっても、自分がそれによって生き、それによって死ぬことができなければ真理でも何でもありません。ところで、先に述べましたように、証明とは客観的に真理であることを言うための手続きですから、主体的真理にとって証明は縁がありません。主体的真理は証明できないのですが、それより前に、そもそも証明の必要がないのです。
 ここから証明とは説得であることが見えてきます。人を「うん」と言わせる手続き、これが証明です。したがって証明とは縁のない主体的真理は人を説得するものではないということです。自分がひとり頷くだけの真理です。
 人を説得できてはじめて真理と言えるというのが世の常識です。自分ひとりが頷いているようでは真理でも何でもないと言われます。それは学問の世界だけでなく宗教の世界でも当然とされ、かくして宗教活動は布教活動と同一視されます。信心するとは布教することに他ならないと(宗教の排他性はここから生まれます)。さてしかし、もし宗教の真理が主体的真理であるとすれば、それは人を説得して広めなければならないようなものではないということです。自分がひとり、それによって生き、それによって死ぬことができればいいということです。
 ここできっと疑問が生じることでしょう。宗教の真理が主体的真理であるなら、どうして親鸞は弥陀の本願を説き、イエスは神の愛を説いたのか、と。親鸞もイエスも、自分ひとり、それによって生き、それによって死ぬだけでいいではないか、と。

タグ:親鸞を読む
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