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むこうからゲットされる [はじめての『尊号真像銘文』(その102)]

(5)むこうからゲットされる

 客観的真理と主体的真理と言ってきましたが、それはこれまで述べてきました「こちらからゲットする真理」と「むこうからゲットされる真理」と同じです(第6回、16)。そこであらためてこの対に目を向けますと、ぼくらが真理ということばで普通に思い浮かべるものは前者の「こちらからゲットする真理」です。他人から教えてもらうにしても、それをおのれの頭で「なるほど正しい」と納得しなければ真理とは言えませんから、やはり自分でゲットしているのです(誰もがゲットできることで客観性が保たれます)。それに対して後者の「むこうからゲットされる真理」というのがよく分からない。特別な神秘的体験(超常現象のようなもの)のことかと思われかねない言い回しです。
 これまで弥陀の本願とは「こちらからゲットするもの」ではなく「むこうからゲットされるもの」だという言い方を繰り返ししてきましたが、あらためて「むこうからゲットされる」とはどういうことかを考えておきたいと思います。
 「目覚める」という経験を手がかりにしましょう。「夢から覚める」でもいいのですが、ここでは「マインド・コントロールから覚める」ことを取り上げたい。誰かのマインド・コントロールをうけて、ある想念に完全に縛られてしまっている人は、自分がそのようにマインド・コントロールされているとは露ほども思っていません。マインド・コントロールとは、相手にマインド・コントロールを受けていると思わせないで、マインド・コントロールすることです。自分はマインド・コントロールをうけているのかもしれないと気づいたときには、その人はもうマインド・コントロールから覚めています。
 さてマインド・コントールをうけていた人が、それから覚めるとき、みずから覚めようと思って覚めたわけではありません。そもそもマインド・コントロールをうけているとは思っていないのですから、それから覚めようと思うはずがありません。あるとき思いもかけずマインド・コントロールから覚め、「あゝ、これまでずっとマインド・コントロールをうけていたのか」と驚いているのです。ということは、マインド・コントロールからの目覚めは「こちらからゲットする」のではなく、「むこうからゲットされる」のだと言わなければなりません。

タグ:親鸞を読む
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