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目覚めや想起 [はじめての『尊号真像銘文』(その103)]

(6)目覚めや想起

 もうひとつ「思い出す」という経験を取り上げましょう。あることをすっかり忘れていて、忘れていること自体を忘れているのですが、あるとき突然それを思い出すという経験です。この場合も、みずから思い出そうとして思い出したのではありません。忘れていること自体を忘れているのですから、思い出そうとするはずはなく、あるとき突然思い出すのです。そして「あゝ、そうだった。これまですっかり忘れていた」と驚くのです。この経験もまた「むこうからゲットされる」ことと言えるでしょう。
 このように「むこうからゲットされる」というのは、何も特別な神秘的体験などではなく、目覚めや想起において日常的に経験していることであることがお分かりいただけると思います。
 そこから翻って考えますと、親鸞やイエスが「むこうからやってきた真理にゲットされた」というのも、ある種の目覚めや想起の経験であったであろうと了解できます。親鸞が弥陀の本願にゲットされたというのは、これまで眠りの中にあって(あるいはマインド・コントロールの中にあって)まったく気づかなかった弥陀の本願にふと目覚めたということではないか。あるいはこれまで深い忘却の中にあった弥陀の本願をあるときふと思い出したということではないか、と。
 ここまできまして先の疑問に答えることができます。宗教の主体的真理とは、他の人を説得して弘めるようなものではなく、自分がそれによって生き、それによって死ぬことができる真理であるはずなのに、どうして釈迦やイエスはそれを人々に説き伝え続けたのかという疑問です。主体的真理とは「むこうからやってきた真理にゲットされる」ことであり、これまで深い眠りや忘却のなかにあった真理にふと目覚め、思いがけず想起することです。その経験は大きな喜びであり、それを自分の中にしまっておくことはできなくなります。かくして人々に語り伝えずにはいられなくなるのです。
 それは人を説得しようとしているのではなく、むこうからやってきた美しいメロディーにこころが共鳴し、それがまた口をついて出ていくようなものです。

タグ:親鸞を読む
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