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よく念ずと申すは、ふかく信ずるなり [はじめての『尊号真像銘文』(その105)]

(8)よく念ずと申すは、ふかく信ずるなり

 源信につづいて源空の真影に付された銘文は弟子である隆寛の文です。日付けが建暦壬申(建暦二年)三月一日とありますから、1212年、法然が亡くなった年の3月1日で、35日の法要で読まれたものだろうと考えられています。隆寛といいますと、法然の高弟の一人で、多念義を代表する人物です。親鸞はこの隆寛を、少し後に出てくる聖覚とともに高く評価して、隆寛の『一念多念分別事』の注釈書として『一念多念文意』を著し関東の弟子たちに送っています。
 隆寛は源空の浄土教をこの短い文に約めています。まず「能念皆見化仏菩薩(よく念ずればみな化仏菩薩を見たてまつる)」ですが、この「よく念ずる」について親鸞は「よく念ずと申すは、ふかく信ずるなり」と言い換えます。仏を念ずる、念仏するといいますと、ぼくらはすぐ南無阿弥陀仏を「称える」ことを思います。しかし親鸞は念仏とは何よりも南無阿弥陀仏を「信ずる」ことだと繰り返し言います。そして親鸞にとって「信ずる」とは「聞こえる」ことに他なりません。
 念仏はもちろん南無阿弥陀仏を「称える」ことですが、しかしそれに先立って南無阿弥陀仏は「聞こえる」のであり、この「聞名」があるからこそ「称名」があるのだということ、ここに親鸞浄土教の眼目があります。ぼくには長い間これが見えていませんでした。念仏とは称えることだとしか思っていなかったのです。その間ぼくはなかなか念仏を称えることができませんでした。念仏しようと思っても咽喉の奥につかえて出てこないのです。念仏が何か呪文を称えることのように思えて抵抗感があったのでしょう。
 しかし念仏とは、まず南無阿弥陀仏が聞こえてきて、それにこだまするように南無阿弥陀仏と称えるのだということに気づきますと、不思議かな、これまで咽喉につかえていた念仏がすっと出るようになりました。ぼくが念仏するというよりも、むこうからやってきた南無阿弥陀仏がぼくの身体を通って、またぼくの口から出ていくという感じになったのです。むこうからやってきた美しいメロディーにこころが共鳴し、それにハミングするようなものです(六波羅蜜寺の空也像は、空也が南無阿弥陀仏をハミングしているように見えます)。

タグ:親鸞を読む
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