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因果の関係 [はじめての『尊号真像銘文』(その106)]

(9)因果の関係

 次に「明知称名往生要術(あきらかに知りぬ、称名は往生の要術なることを)」について親鸞は「往生の要には、如来のみなをとなふるにすぎたることはなしとなり」とさらりと解説していますが、「要術」ということばには念仏することを往生のための「すべ」、「手立て」とイメージさせる力がないでしょうか。しかしそのイメージでは、念仏は「ためにする念仏」、「自力の念仏」になってしまいますから、ここは慎重に読まなければなりません。
 ぼくらはともすると念仏(信心としてもいいですが)と往生の関係を因果の関係ととらえます。念仏が因となって往生という果がえられると。仏教は因果の教えであるという通念がありますからなおさらのこと、もういたるところに因果の関係を見てしまうのです。釈迦は縁起の法を説きましたから、それを因果の教えと言いかえますと、仏教は因果の教えであるとするのも間違いではないのですが、ただその言いかえには大きな危険が伴います。といいますのは、ぼくらは因果関係ということばを聞きますと、当たり前のように近代科学で言う原因・結果の概念を思い浮かべるからです。
 近代科学の根本概念としての原因・結果について徹底して考えたのがイギリスのヒュームという哲学者で、彼はわれらがどんな出来事にも必ず原因があると思うのはどうしてかという問いを立てました。そして個々の出来事の原因が何であるかは経験からしか得られないように、どんな出来事にも原因があるとする因果律自体も経験から帰納されたという結論を出したのです。これに独断のまどろみから目覚めさせられたカントが『純粋理性批判』をあらわし、彼独自の因果律理論を打ち立てるのですが、ヒュームにとってもカントにとっても、原因は時間的に結果に先んじています。
 まず原因があり、時間の長短はあれ、その後に結果が生じる、これが近代科学の因果律です。これがぼくらにしっかり摺りこまれていますから、仏教で因果というときも、当然この因果概念を頭に浮べます。まず因(そして縁)があり、しかる後に果が起る、と。いまの場合、まず念仏をして、それが因となって、しかる後に往生という果を得ることになります。さてしかし、先に言いましたように、これでは「ためにする念仏」、「自力の念仏」になってしまいます。

タグ:親鸞を読む
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