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念仏と往生は同時因果 [はじめての『尊号真像銘文』(その107)]

(10)念仏と往生は同時因果

 同じ因果ということばを使いますから話がややこしくなるのですが、仏教の縁起と近代的因果ははっきり分けなければなりません。後者において「この原因によって、あの結果が生じる」と言うとき、「この原因」と「あの結果」の間には時間の経過がありますが(そこから異時因果とよばれることがあります)、前者において「これあるに縁りてかれあり」と言うとき、「これ」と「かれ」の間には時間的前後関係はありません(同時因果とよばれます)。同じことですが、後者においては原因と結果は不可逆であるのに対して、前者においては可逆的です。「これあるに縁りてかれあり」であると同時に「かれあるに縁りてこれあり」でもあるということです。
 さて近代科学の因果概念は、さまざまな出来事の原因をつきとめることによりわれらの生活に便宜をもたらそうという発想がその根っ子にあります。ある出来事がわれらにとって悪いものであるなら、その原因を明らかにすることにより、もう起らないようにすることができますし、善いものなら、その原因を探究して何度も起るようにすることができます。こんなふうに、この因果概念はきわめて実用的なものであることが了解できます。それに対して仏教の縁起という概念は、この世界が縦横無尽につながりあっていることに目を向けるだけで、世界をよりよいものに変えようとするのではありません。
 念仏は往生の「ための」要術であるという発想は、念仏という因があり、それによって往生という果が生じるという因果関係を前提としています。そこから往生という果をえる「ために」は念仏という因が「手立て」として必要であるということになるわけです。しかし念仏と往生とは縁起の関係で、「念仏に縁り往生がある」のであり、また「往生に縁り念仏がある」のです。念仏(親鸞によれば、それは信心に他なりませんが)と往生とは別ものではなく、念仏することがそのまま往生することです。本願にゲットされるそのとき(それが信心のときであり、また念仏のときです)が往生のときです。

タグ:親鸞を読む
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