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信心のたま [はじめての『尊号真像銘文』(その109)]

(12)信心のたま

 隆寛の讃文に「信珠在心心照迷境(信珠心にあれば、心迷境を照らし)」とあるのを、親鸞は「信心のたまをもて、愚痴のやみをはらひ、あきらかにてらす」とかみ砕いてくれます。「信珠在心」という言い回しに味わいがあります。信心のたまがこころにあるというのは、いつもこころに弥陀の本願があるということ、南無阿弥陀仏があるということです(毎度言いますように、本願と名号は別ものではありません、本願を六字に約めたものが名号です)。「いつもこころに太陽を」という映画がありましたが、そのタイトルをお借りしまして「いつもこころに名号を」ということです。
 そして「心照迷境」。南無阿弥陀仏がこころにありますと、愚痴のやみがはらわれ、こころが明るくなるということです。ぼくらのこころはちょっとしたことで愚痴のやみに覆われます。欝々として楽しめない。親鸞は『法事讃』(善導)の「致使凡夫即念生(凡夫念ずればすなはち生ぜしむることをいたす)」の文の「凡夫」について「凡夫といふは、無明煩悩われらがみにみちみちて、欲もおほく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころ、おほくひまなくして、臨終の一念にいたるまで、とどまらず、きえず、たえず」(『一念多念文意』)と、これでもかとばかりわれらの心の中を掻っ捌きますが、わが身をふりかえりますと「いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころ」の「おほく、ひまな」いことを痛感せざるをえません。
 ある方がこんな話をされたことがあります。散歩の途中、草むらをチョロチョロするトカゲに見つけて近寄ってみると、そのトカゲが一瞬その方を振り向いたそうです。「トカゲって、とてもきれいな眼をしているんですよ」。きっとそのときその方のこころもきれいに澄んでいたことでしょう。でも、彼の言いたいことはそのことではなく、その後にありました。散歩から帰ってテレビに目をやると、政治のニュースをやっていて、それをみて途端にこころが暗くなったというのです。共謀罪のニュースでもやっていたのでしょうか。で、その方が言いたかったのは、さっきトカゲの眼にこころが澄み渡ったのと、政治のニュースにこころが欝々としてしまったことの、そのコントラストです。

タグ:親鸞を読む
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