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疑雲永く晴れ [はじめての『尊号真像銘文』(その110)]

(13)疑雲永く晴れ

 「いつもこころに名号を」もっていても、ちょっとしたことでこころは生死のやみに閉ざされてしまうのがわれら凡夫です。これは親鸞が言うように「臨終の一念にいたるまで、とどまらず、きえず、たえず」です。でもそのとき「いつもこころに名号を」もっているといないとでは大きな違いです。「いつもこころに名号を」もっていますと、「疑雲永晴仏光円頂(疑雲永く晴れ、仏光頂に円かなり)」ですから、生死のやみに閉ざされても、すぐにそのやみははれるのです。しかし「いつもこころに名号を」もっていませんと、生死のやみはいつまでもはれることなく、やみはむしろますます濃くなっていきます。
 生死のやみと疑雲のやみとははっきり分けて考えなければなりません。
 生死のやみは「臨終の一念にいたるまで」つきあっていかなければなりません。今生で仏にならない限り、どこまでも「いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころ」は絶えませんから、そのつど生死のやみに閉ざされます。でも疑雲のやみは、一旦晴れれば、もう二度と閉ざされることはありません。曇鸞の卓抜な譬えに「千歳の闇室」があります、「たとえば千歳の闇室に、ひかりもししばらくいたれば、すなはち明朗なるがごとし。闇あに室にあること千歳にして、しかもさらじといふことをえんや」と。千年の間ずっと闇に閉ざされていた部屋も、さっとひかりがさせば、その一瞬に明るくなる。千年暗かったのだから、明るくなるのにまた千年かかるということはないのだというのです。
 しかし生死のやみは、たとえ「疑雲が永く晴れ」たとしても、すっかり晴れ渡ってはくれません。正信偈に「すでによく無明の闇を破すといへども、貪愛瞋憎の雲霧、つねに真実信心の天におほへり(已能雖破無明闇、貪愛瞋憎之雲霧、常覆真実信心天)」とあるのはそれを詠っています。ここで無明の闇というのが疑雲の闇であり、貪愛瞋憎の雲霧が生死の闇をつくりだします。そして疑雲の闇が晴れたとしても、生死の闇はすっかり晴れるわけではなく、貪愛瞋憎の雲がどんより覆っているというのです。でもそれを逆に言いますと、貪愛瞋憎の雲がかかっていたとしても、すでに無明の闇は晴れているのですから、「たとえば日光の雲霧におほはるれども、雲霧のしたあきらかにして、やみなきがごとし(譬如日光覆雲霧、雲霧之下明無闇)」です。

                (第7回 完)

タグ:親鸞を読む
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