SSブログ
はじめての『尊号真像銘文』(その112) ブログトップ

往生の業は念仏を本とす [はじめての『尊号真像銘文』(その112)]

(2)往生の業は念仏を本とす

 ひとつ前の銘文は源空を讃嘆する隆寛の文でしたが、今度は源空その人の文で、『選択本願念仏集』から三文が引かれています。一つ目の「南無阿弥陀仏 往生の業は念仏を本とす」は『選択集』の冒頭に掲げられ、この書の眼目を示しています。二つ目の「それすみやかに生死を離れんと欲はば云々」は、最終章「十六 釈迦如来、弥陀の名号をもつて慇懃に舎利弗等に付属したまふの文」に、この書の結論を要約するかたちで出てきます。そして三つ目の「まさに知るべし、生死の家には云々」は、書のなかほどの章「八 念仏行者は必ず三心を具すべきの文」に、三心のひとつ深心(深信)を説くなかで出てきます。
 まず一つ目の文「南無阿弥陀仏 往生の業は念仏を本とす」ですが、この書を一言に約めれば「南無阿弥陀仏」の六字になることをはじめに標榜しています。なぜなら「往生の業は念仏を本とす」るからであるというのです。親鸞はこれを「往生の正因は念仏を本とす」ると言い換えていますが、さてしかしどうしてそんなことが言えるのか、それを本格的に論じているのが「三 弥陀如来、余行をもつて往生の本願としたまはず。ただ念仏をもつて往生の本願としたまへるの文」です。
 法然はそこでこう問います、「何が故ぞ、第十八の願に、一切の諸行を選捨して(選び捨て)、ただ偏に念仏一行を選取して(選び取って)、往生の本願とするや」と。そして「聖意(仏のこころ)測り難し、たやすく解することあたはず」と言いながら、「勝劣の義」と「難易の義」の二つがあると答えます。まず「勝劣の義」でいえば、「(あらゆる功徳が)ことごとく阿弥陀仏の名号の中に摂在(しょうざい)」するが、他の行はそのなかの一二の功徳しかないから念仏は勝れているとします。そして「難易の義」でいえば、「念仏は修し易し、諸行は修し難し」で、「念仏は易きが故に一切に通ず。諸行は難きが故に諸機(あらゆる衆生)に通ぜず」だから、「一切衆生をして平等に往生せしめむがために、難を捨て易を取りて本願としたまふか」と言います。

タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問
はじめての『尊号真像銘文』(その112) ブログトップ