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念仏一行を選取して、往生の本願とする [はじめての『尊号真像銘文』(その113)]

(3)念仏一行を選取して、往生の本願とする

 法然は「一切衆生をして平等に往生せしめむがために、難を捨て易を取りて本願としたまふか」と述べるにあたって源信の『往生要集』から同趣旨の文を引いていますが、源信と法然とでは微妙な差があることに気づきます。
 源信もこう問います、「一切の善業、おのおの利益ありて、おのおの往生を得。何が故ぞ、ただ念仏一門を勧むるや」と。そしてこう答えるのです、「今念仏を勧むることは、これ余の種々の妙行を遮せむとにはあらず。ただこれ男女貴賤、行住坐臥を簡ばず、時処諸縁を論ぜず、これを修するに難からず、ないし臨終に往生を願求するに、その便宜を得たるは念仏に如(し)かざればなり」と。この文は『往生要集』巻下の大文第八(第八章ということです)「念仏の証拠」に出てくるのですが、これと先の法然の文を読み比べてみてください。そこに何かしら違いが見えてこないでしょうか。
 念仏と諸行を比較していることは同じですが、問題は比較している人はどこに立っているのかということです。あるいはもっと端的に「だれが」比較しているか。
 『往生要集』は、源信その人が比較しています。もちろんその際、経文を背景としていますが、でも比較衡量して念仏を選んでいるのはあくまで源信です。往生を願求する行者の立場からして、念仏が他の諸行に勝ると主張しているように読めます。一方『選択集』はといいますと、法蔵菩薩が往生の業として念仏を選択したという視点で貫かれています。「聖意測り難」いが、その意を汲んでみると、という立場が明確です。なぜ「往生の業は念仏を本とす」るのか、もっと言えば、どうして念仏することで往生できるのかといえば、それは法蔵がそれを選んだからだ、という立場です。
 ここで思い出されるのが、法然が善導『観経疏』「散善義」の一節に衝撃を受け、専修念仏に開眼したというエピソードです。「一心にもはら弥陀の名号を念じて、行住坐臥に時節の久近をとはず、念々にすてざるをばこれを正定の業となづく。かの仏願に順ずるがゆへに」の一文ですが、この中で法然の眼を射たのが最後の「かの仏願に順ずるがゆへに」です。なぜ念仏が正定業なのか、どうして念仏するだけで往生できるのか、法然の中に薄皮一枚の疑いがあったに違いありません。それをハラリと取り去ってくれたのが、「かの仏願に順ずるがゆへに」の一句でした。そうか、念仏が往生の正定業であるのは、それが本願だからだ、それが本願であるなら、念仏するだけで往生できるのは当然ではないか、と。

タグ:親鸞を読む
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