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弥陀の選択 [はじめての『尊号真像銘文』(その115)]

(5)弥陀の選択

 『選択集』の二つ目の文で、「三選の文」とも「略選択」とも呼ばれ、全体をこの文で要約しているとされます。三選といいますのは、第一に聖道・浄土二門の中から浄土門を選び、第二に正行(読誦、観察、礼拝、称名、讃嘆供養)・雑行(それ以外の万善諸行)の中から正行を選び、第三に正定業(称名)・助業(称名以外の正行)の中から正定業を選ぶということを意味します。結局のところ、仏道のありとあらゆる行の中からただ念仏一つを選び、後のすべてを捨てるということです。専修念仏と呼ばれる所以ですが、さてこの取捨選択をしているのは法然ではなく、法蔵菩薩であるということ、ここに問題の本質があるという点をあらためて確認しておきたいと思います。
 法然はそれを「称名はかならず生ずることを得。仏の本願によるがゆゑに」と言い、親鸞はそのまま「御名を称するは、かならず安楽浄土に往生をうるなり。仏の本願によるがゆゑなり」と言っています。念仏することが往生の唯一の道であるのは、それが弥陀の選択本願であるから、ということ、これが意味していることは深いと言わざるをえません。もし法然自身が仏道の中で浄土門を選び、正雑二行の中で正行を選び、正助二業の中で正定業を選んでいるだけならば、「だから」念仏することが往生の道であるとは断定できません。法然が間違っている可能性を排除できないからです。でもそれが弥陀の選択本願であるとすれば、もう往生を疑う余地はありません。
 親鸞はそのことがはっきりするように、たとえば次のように「命令形」をもちいて表現しています。「夫速欲離生死といふは、それすみやかにとく生死をはなれむとおもへとなり」と。あるいは「選入浄土門といふは、選入はえらびていれとなり」と。この「おもへ」、「いれ」というのは、法然がそのように命じているというのではないでしょう。弥陀の本願がそう命じているのです。それは「本願招喚の勅命」(「行巻」)であり、われらはただその勅命に従うだけです。だとすれば、その勅命に従うことにより往生できるのは間違いのないことではないでしょうか。

タグ:親鸞を読む
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