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テキストの解釈 [はじめての『尊号真像銘文』(その116)]

(6)テキストの解釈

 さあしかし、ここでこんな疑問が持ち上がるかもしれません。念仏を選んだのは法蔵であり、それは本願の勅命だと言うが、それは法然が、あるいは親鸞が第十八願をそのように読んだのであって、結局は法然や親鸞が念仏を選択しているのではないか、と。ここには「解釈」をめぐる微妙で困難な問題が潜んでいます。テキストはひとつでも、それをどう読むかで見解が分かれるものであり、そこから分派間の争いが生まれてくるのはどの宗教にもしばしばみられることです。いまの場合、『無量寿経』というテキストの眼目が第十八願にあり、そこに法蔵菩薩の選択がはっきり示されている、というのは法然や親鸞の解釈ではないかということです。
 なるほど、どんなテキストもその解釈を離れては存在しないでしょう。あらゆる解釈からニュートラルなテキストそのものなどというものはどこにもありません。しかしそれはテキストを「読む」とか「解釈する」ことが問題となっているときのことです。そして「読む」とか「解釈する」というのは、テキストをこちらから「つかみ取ろう」としています。ぼくはよく「ゲットする」という言い方をしますが、「わがものとする」と言っても同じです(『スッタニパータ』などの原始経典を読みますと、この「わがものとする」とことばがしばしば登場し、これがあらゆる苦のもとであると説かれます)。ぼくらはテキストを読んで、それを「わがものとしよう」としますが、そのとき人によって解釈が異なるという問題に直面するのです。
 さてしかし、ぼくらがテキストをゲットするのではなく、テキストがぼくらをゲットすることがあります。ぼくらはテキストにゲットされるのです。先に法然が善導のことばに「打たれた」という話をしましたが、それはまさに善導の『観経疏』というテキストが法然をゲットしたということです。こちらからテキストに向かっていくのではなく、逆にテキストがこちらに向かってきて、ぼくらはそれに呑み込まれてしまう。そのとき、もう解釈がどうのというようなことはまったく問題になりません。

タグ:親鸞を読む
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