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文字と声 [はじめての『尊号真像銘文』(その117)]

(7)文字と声

 「称名はかならず生ずることを得。仏の本願によるがゆゑに」ということばを考えているところです。どうして念仏するだけで往生できるのかといえば、それが弥陀の選択本願だからだということです。親鸞のことばで言えば、それが本願招喚の勅命だからということ。それに対して、念仏は弥陀の選択だ、本願の勅命だと言っても、法然や親鸞が『無量寿経』をそのように読んだのであって、それは結局のところ法然や親鸞が念仏を選んだということではないかという疑問を出し、そうではないと答えてきました。法然や親鸞が『無量寿経』の第十八願を読み、それを解釈して、「そうか、念仏するだけで往生できるということか、では念仏をしよう」と決意したというのではなく、第十八願が法然や親鸞に「念仏せよ」と直に呼びかけているということです。
 しかしテキストがわれらをゲットするとか、第十八願が直によびかけるというのはどういうことか、よく分からないという苦情が出されるかもしれません。そこで「文字と声」の対比を考えたいと思います。テキストとか第十八願といいますと、書かれた文字を思い浮かべます。それはつまるところ紙の上のインクの染みにすぎませんから、それがわれらをゲットするとか、よびかけてくるなどというのは、いったいどういうことかと戸惑いを覚えるのです。でも、どうでしょう、ときにその文字がムクムクと立ち上がってこちらに向かってくることがないでしょうか。オカルトではありません。文字が声となってやってくるということです。
 声といっても、耳に聞こえるものだけではありません、こころに届く声がたくさんあります(「帰っておいで」の声)。そしてぼくらにとって大事な声というのはこころに届く声ではないでしょうか。それはそうかもしれないが、こころの声などと言い出せば、もう主観の世界に入ってしまい収拾がつかなくなるよ、と言われるかもしれません。でも主観的であることに意味があることもあります。たとえば、自分にしか届かない「好きだよ」というこころの声。この声は主観的であるから値打ちがあり、みんなに届くと困ってしまいます。弥陀の本願の声も、このわたしに届いたから意味があるのです。「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり」とはそういうことです。

タグ:親鸞を読む
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