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本文26 [はじめての『尊号真像銘文』(その118)]

(8)本文26

 またいはく、「当知生死之家(とうちしょうじしけ)」といふは、「当知」は、まさにしるべしとなり。「生死之家」は、生死の家といふなり。「以疑為所止(いぎいしょし)」といふは、大願業力の不思議をうたがふこころをもつて、六道・四生・二十五有・十二類生にとどまるとなり。いまにひさしく世に迷ふとしるべしとなり。「涅槃之城(ねはんしじょう)」と申すは、安養浄刹(あんにょうじょうせつ)をいふなり。これを涅槃のみやことは申すなり。「以信為能入(いしんいのうにゅう)」といふは、真実信心を得たる人の、如来の本願の実報土によく入るとしるべしとのたまへるみことなり。信心は菩提のたねなり。無上涅槃をさとるたねなりとしるべしとなり。

 また「まさに知るべし、生死の家には」の当知とは、まさに知るべしということで、生死之家とは、この生死の家のことです。「疑をもつて所止となし」とは、大いなる本願の力を疑うこころがあるから、六道・四生・二十五有・十二類生など、さまざまによばれる生死の世界に留まるというのです。今まで長らく生死の世界に迷ってきたと言うのです。「涅槃の城には」とは、安養浄土のことです。それを涅槃のみやこと言っているのです。「信をもつて能入となす」とは、真実の信心を得た人は、如来の本願に誓われた真実の浄土に入ることができるのだと心得なさいということです。信心が菩提の種であること、無上の涅槃を悟る種である事を心得なさいと言うのです。

 『選択集』の三つ目の文です。法然といえば「偏依善導」の立場を取り、「専修念仏」を標榜しますから、どうしても称名念仏に光があたり、信心は後景に退きがちですが、念仏に信心が伴っていなければただの空念仏にすぎません。そこで親鸞としては、この「涅槃の城には信をもつて能入となす」という文を重視せざるをえません。正信偈にも源空讃として「速入寂静無為楽、必以信心為能入(すみやかに寂静無為のみやこに入ることは、かならず信心をもつて能入とす)」と詠っています。

タグ:親鸞を読む
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