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疑と信 [はじめての『尊号真像銘文』(その119)]

(9)疑と信

 法然の文は「生死の家には疑をもつて所止となし、涅槃の城には信をもつて能入となす」ときれいな対句となっています。
 「生死の家」と「本願への疑」がひとつのセットとされ、「涅槃の城」と「本願への信」がもうひとつのセットとされて、このふたつのセットが対比されます。まず「疑と信」の対から見ていきましょう。普通には、疑も信もわれらが対象に押すスタンプとして了解されます。ある対象には疑のスタンプを押し、別の対象には信のスタンプを押すというように、さまざまなものを疑わしいものと信じられるものとに弁別するのです。それをするのがわれらであることは当たり前のことです。ところが本願については様子が異なります。われらが本願という対象に疑のスタンプを押したり、信のスタンプを押すというような具合にはなっていないのです。
 そもそも本願というのはわれらがそれに向かい合っている対象として存在するものではありません。こちらにわれらがいて、向こうに本願があるというようにはなっていないということです。こちらにわれら、向こうに対象という場合は、われらがそれのあるところまで出かけていって、あるいは手元にあるときはそれを手にとってさまざまに吟味します。その上で疑わしいか信じられるかに断を下すわけです。しかし本願の場合、われらがこちらから出かけていくのではなく、反対に本願がむこうからやってきてわれらをゲットするのです。われらは思いがけなく本願にゲットされるのであり、これが信ということです。では疑はといいますと、いまだ本願にゲットされていないということです。
 どういうわけか、もうすでに本願にゲットされていることが信であり、どういうわけか、いまだ本願にゲットされていないのが疑です。
 われらが本願に疑のスタンプを押したり、信のスタンプを押したりするのではありません。本願がわれらに疑のスタンプを押したり、信のスタンプを押したりするのです。そして本願がわれらに疑のスタンプを押すことが、生死の家にとどまることであり、信のスタンプを押すことが、涅槃の城に出あうことです。

タグ:親鸞を読む
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