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生死の家 [はじめての『尊号真像銘文』(その120)]

(10)生死の家

 次に生死の家と涅槃の城の対です。まず生死の家ですが、それがこの娑婆世界のことであるのは言うまでもありません。
 親鸞は娑婆世界を六道・四生・二十五有・十二類生と言い換えていますが、六道は地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人・天の六つの生き方であり、四生とは卵生・胎生・湿生・化生という四つの生まれ方です(卵生、胎生はそのままですが、湿生とは湿気から生まれること、化生とは見えない力で忽然と生まれることです)。また二十五有といいますのは、欲界(婬欲と食欲をもつ衆生の世界)・色界(欲をはなれた清らかな世界)・無色界(物質の世界を超えた純粋に精神的な世界)の三界をさらに細かく二十五の世界に分けたものです。そして十二類生とは先の四生に有色・無色などさらに八つの生まれ方を数えたものを言います。六道の中の天や三界の中の色界・無色界も含めて、みな迷いの中にあり、苦しみから逃れられない娑婆です(娑婆とは「サハー」、すなわち苦しみの世界ということです)。
 さて本願にゲットされないと、もっと分かりやすく言って、本願に遇うことがないと、生死の家にとどまるというのはどういうことでしょう。
 注意しなければいけないのは、生死の家というのは本願に遇ってから後の言い方であるということです。ここは生死の家である、迷いのなかにあって苦しみの絶えない世界であるというのはすでにひとつの気づきであるということを忘れるわけにはいきません。そしてこの気づきは涅槃の城の気づきを伴っているということ、これが大事なポイントです。生死の家の気づきは、それだけではありえず、かならず涅槃の城の気づきとセットであるということです。これまで何度となく持ち出した譬えですが、闇の気づきは、光の気づきがあってはじめてありうるということです。生まれてこのかたずっと闇の中に生きてきたものは、自分は闇の中にいるという自覚をもつことがありません。光に出あってはじめて、「あゝ、これまでずっと闇の中にいたのだ」と気づくことができるのです。
 このように、本願に遇い涅槃の城に気づいてはじめて、ここが生死の家だという自覚をもつことができるのですから、まだ本願に遇っていない人は、ここが生死の家であるという自覚なしに、ただもうやみくもにここに生きるしかありません。

タグ:親鸞を読む
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