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涅槃の城 [はじめての『尊号真像銘文』(その121)]

(11)涅槃の城

 次に涅槃の城ですが、親鸞は「涅槃之城とまふすは、安養浄刹(あんにょうじょうせつ)をいふなり。これを涅槃のみやことは申すなり」と説明してくれます。安養浄土はそこで涅槃をえる(仏となる)ところだから、そこを涅槃の城というのだということです。さてでは「涅槃の城には信をもつて能入となす」ということ、信をえる(本願に遇う)ことにより涅槃の城(安養浄土)にはいるというのはどういうことでしょう。これを、いま信をえることで、いのち終わるときに往生すると間延びして理解するのは親鸞的ではないでしょう。信をえたそのときに(本願に遇えたそのときに)往生するのであり、「臨終まつことなし、来迎たのむことなし」(『末燈鈔』第1通)とするのが親鸞です。
 ここであらためて確認しておきたいのが、往生と成仏とは別であるということです。どういうわけか、往生はそのまま成仏であるかのような通念が広まっています。ぼくも長い間その通念に囚われていましたが、曽我量深氏の示唆を受け、この通念がさまざまな混乱のもとにあることにようやく気づきました。親鸞にとって往生とはかなりの時間的幅をもった概念で、「念仏まうさんとおもひたつこころのをこるとき、すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふ」のがすでにして往生のはじまりです。そのときから往生がスタートし、いのち終わるまでつづくということ、そしてそれはもちろん成仏とはまったく別のことです。
 往生とは成仏をめざしてあゆみ続ける旅です。
 さてこのように信をえたそのときに涅槃の城に入る(涅槃に入るのではありません、念のため)としますと、生死の家と涅槃の城とはどのような関係にあることになるでしょう。生死の家とはこの娑婆世界のことですから、娑婆にいながら涅槃の城(浄土)に入るとすれば、この両者は別ではないということになります。ここは娑婆でありながら、そのままで浄土でもあるということです。これまた世に出まわっている通念とはよほど異なりますから、丁寧にお話しなければなりません。

タグ:親鸞を読む
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