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浄土は何処に [はじめての『尊号真像銘文』(その122)]

(12)浄土は何処に

 世に出まわっている通念では、「これより西方、十万億の仏土を過ぎて世界あり、名づけて極楽」(『阿弥陀経』)であり、極楽世界は娑婆世界とはまったく別の世界です。したがってそこに往生するのは、ここでのいのちが終わった後になるのは当たり前のことで、それ以外に考えようがありません。ここ娑婆にいるか、さもなければ、あちらの極楽に往くか、そのどちらかで、ここにいながらあちらに往くというのは理不尽です。この「死んでからアナザーワールドに往く」という発想は非常に自然でスッと頭に入りますが、ただ誰一人としてそのアナザ-ワールドを見た人がいないという決定的弱点があります。
 それに対して、ここは娑婆でありながら、そのままで同時に浄土であるというのは「いまここ」での実体験ですが、ただどうにも不可解と言わなければなりません。
 これがもし、いま名古屋にいるが、こころでは東京のことを思っている、というようなことを言っているのでしたら、何も難しいことはありません。その意味でしたら、身は娑婆にいるが、こころは浄土に遊んでいるというのはごく自然なことです。しかし、信をえたそのときに涅槃の城に入るというのは、ただこころの中に涅槃の城を思い浮かべているというようなことではないでしょう。親鸞が手紙で「信心のひとはその心つねにすでに浄土に居す」(『末燈鈔』第3通)というとき、浄土はただ心の中にあるだけということではないはずです。信心のひとは娑婆にいながらにして、紛れもなく浄土に生きているに違いありません。これはしかしどういうことか。
 涅槃の城はただ「こころの中」にあるだけではありません。でも「こころの外」のどこかに(西方十万億土に)あるわけでもない。それは「気づきにおいて」あるのです。少し前のところで生死の家からしてすでにしてひとつの気づきだと言いました(10)。ここは生死の家であるというのは、ここは苦に満ちた娑婆世界であるという気づきです。そしてこの気づきはかならず涅槃の城の気づきを伴っているとも言いました。涅槃の城の気づきがあってはじめて生死の家の気づきがあるのであって、このふたつの気づきはふたつでひとつ、あるいはコインの表と裏の関係です。

タグ:親鸞を読む
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