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本文27 [はじめての『尊号真像銘文』(その124)]

         第10回 無明長夜の大いなる燈炬なり

(1)本文27

法印聖覚和尚の銘文
 「夫根有利鈍者(ふこんうりどんしゃ)、教有漸頓(きょううぜんとん)。機有奢促者(きうしゃそくしゃ)、行有難易(ぎょううなんい)。当知聖道諸門漸教也(とうちしょうどうしょもんぜんきょうや)、又難行也(うなんぎょうや)。浄土一宗者頓教也(じょうどいっしゅしゃとんぎょうや)、又易行也(ういぎょうや)。所謂真言止観之行(しょいしんごんしかんしぎょう)、獼猴情難学(みこうじょうなんがく)。三論法相之教(さんろんほっそうしきょう)、牛羊眼易迷(ごようげんいめい)。然至我宗者(ねんしがしゅしゃ)、弥陀本願(みだほんがん)、定行因於十念(じょうぎょういんおじゅうねん)、善導料簡(ぜんどうりょうけん)、決器量於三心(けつきりょうおさんしん)。雖非利智精進(すいひりちしょうじん)、専念実易勤(せんねんじついごん)。雖非多聞広学(すいひたもんこうがく)、信力何不備(しんりきがふび)。乃至 然我大師聖人(ねんがだいししょうにん)、為釈尊之使者(いしゃくそんしししゃ)、弘念仏一門(ぐねんぶついちもん)。為善導之再誕(いぜんどうしさいたん)、勧称名一行(かんしょうみょういちぎょう)。専修専念之行(せんじゅせんねんしぎょう)、自此漸弘(じしぜんぐ)、無間無余之勤(むけんむよしごん)、在今始知(ざいこんしち)。然則破戒罪根之輩(ねんそくざいこんしはい)、加肩入往生之道(かけんにゅうおうじょうしどう)、下智浅才之類(げちせんさいしるい)、振臂赴浄土之門(しんびふじょうどしもん)。誠知無明長夜之大燈炬也(じょうちむみょうじょうやしだいとうこや)。何悲智眼闇(がひちげんあん)、生死大海之大船筏也(しょうじだいかいしだいせんばつや)。豈煩業障重(きぼんごっしょうじゅう)」

 「それ根に利鈍(鋭いと鈍い)あれば、教に漸頓(ぜんとん、徐々にと一瞬に)あり。機に奢促(しゃそく、遅いと速い)あれば、行に難易あり。まさに知るべし、聖道の諸門は漸教なり、また難行なり。浄土の一宗は頓教なり、また易行なり。いはゆる真言・止観(真言宗と天台宗)の行、獼猴(みこう、猿のこと)の情学びがたく、三論・法相の教、牛・羊の眼迷ひやすし。しかるにわが宗に至りては、弥陀の本願、行因を十念に定め、善導の料簡(りょうけん、考え)、器量を三心(至誠心・深心・回向発願心)に決す。利智精進(智に勝れ、修行に励む)にあらずといへども、専念まことに勤めやすし、多聞広学にあらずといへども、信力なんぞ備はらざらん。乃至 しかるにわが大師聖人、釈尊の使者として念仏の一門を弘め、善導の再誕として称名の一行を勧めたまへり。専修専念の行、これよりやうやく弘まり、無間無余(絶え間なく一心に)の勤め、いまにありてはじめて知りぬ。しかればすなはち、破戒罪根の輩、肩を加(きし)りて(得意になって)往生の道に入り、下智浅才の類、臂(ひじ)を振うて浄土の門に赴く。まことに知りぬ、無明長夜の大いなる燈炬(とうこ)なり、なんぞ智眼の闇きことを悲しまん。生死大海の大いなる船筏(せんばつ)なり、あに罪障の重きを煩はんや(どうして罪深いことを嘆くことがありましょうか)」

タグ:親鸞を読む
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