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二双二重 [はじめての『尊号真像銘文』(その126)]

(3)二双二重

 聖覚は機の利鈍に対応して教の漸頓(ぜんとん)、機の奢促(しゃそく)に対応して行の難易の差があると述べ、聖道門は漸教にして難行、浄土門は頓教にして易行であると特徴づけています。親鸞はその解説の中で、さらに自力と他力の概念をつけ加え、聖道門は漸教にして自力の難行であるのに対して、浄土門は頓教にして他力の易行であると述べています。ただ親鸞の説明の途中で、「あれ」と思わせられる箇所があります。漸教は長い時間をかけてようやく仏になる道であるのに対して、頓教は「この娑婆世界にして、この身にてたちまちに仏になるとまふす」とし、その上で「これすなわち、仏心・真言・法華・華厳等のさとりをひらくなり」と言うものですから、「うん?」と首をひねってしまうのです。これでは浄土門ではなく聖道門が頓教になってしまうではないか、と。
 親鸞のなかで混乱があったと言わざるをえません。聖覚としては聖道門が長い時間をかけて仏道修行しなければならない漸教であり、それに対して浄土門は本願を信じ念仏申すだけで往生させていただけるという意味で頓教であるのですが、親鸞は頓教を「この娑婆世界にして、この身にてたちまちに仏になると申す」とするものですから、これは「仏心・真言・法華・華厳等」の聖道門のことになってしまったのです。今生において仏になることをめざすという意味では聖道門が頓教であり、来生の成仏を期する浄土門は漸教とならざるをえません。しかし聖道門が漸教であり、浄土門が頓教であるというのは、それとはまた別の意味においてです。
 親鸞はそれを言うときには「超と出」ということばをつかい、さらに「自力と他力」を意味する「竪と横」という対概念を用いて、そこから四つの組み合わせをつくります。竪超、竪出、横超、横出です。「しかるに菩提心について二種あり。一には竪、二には横なり。また竪について、また二種あり。一には竪超、二には竪出なり。…また横について、また二種あり。一には横超、二には横出なり」(「信巻」)。これを真宗の教学では「二双二重」と呼んでいますが、竪超と竪出が聖道門、そして横超と横出が浄土門であり、そして聖道門、浄土門のそれぞれに超すなわち頓と、出すなわち漸があるということになります。親鸞にとって重要なのは言うまでもなく横超であり、「これすなはち願力回向の信楽」、第十八願の教えです。

タグ:親鸞を読む
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