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本文29 [はじめての『尊号真像銘文』(その128)]

(5)本文29

 「所謂真言止観之行(しょいしんごんしかんしぎょう)」といふは、「真言」は密教なり、「止観」は法華なり。「獼猴情難学(みこうじょうなんがく)」といふは、この世の人のこころをさるのこころにたとへたるなり。さるのこころのごとく、定まらずとなり。このゆゑに真言・法華の行は、修しがたく行じがたしとなり。「三論法相之教牛羊眼易迷(さんろんほっそうしきょう、ごようげんいめい)」といふは、この世の仏法者のまなこを牛・羊のまなこにたとへて、三論・法相宗等の聖道自力の教にはまどふべしとのたまへるなり。「然至我宗者(ねんしがしゅしゃ)」といふは、聖覚和尚ののたまはく、「わが浄土宗は、弥陀の本願の実報土の正因として、乃至十声一声称念すれば、無上菩提にいたるとをしへたまふ。善導和尚の御おしへには、三心を具すればかならず安楽に生るとのたまへるなり」と、聖覚和尚ののたまへるなり。「雖非利智精進(すいひりちしょうじん)」といふは、智慧もなく精進の身にもあらず、鈍根懈怠(どんこんけだい)のものも、専修専念の信心をえつれば往生すとこころうべしとなり。(以下、本文30につづく)

 「いはゆる真言・止観の行」の「真言」は密教の行で、「止観」は法華の行です。「獼猴の情学びがたく」とは、この世の人の心を猿の心にたとえているのです。猿の心のように集中することがないというのです。ですから、真言や法華の行は修行しがたいというのです。「三論・法相の教、牛・羊の眼迷ひやすし」とは、この世の仏法者の眼を牛や羊の眼にたとえて、三論や法相の聖道自力の教えには惑うばかりだと言うのです。「しかるにわが宗に至りては」とは、聖覚聖人が言われるには「わが浄土宗は、弥陀の本願に誓われた真実の浄土に往生するための正因として、わずか十声、一声するだけで、無上の菩提に至ることができると教えているのです。善導和尚は、至誠心・深心・回向発願心の三心がそなわれば必ず浄土に往生できると教えてくださいました」と聖覚聖人は『唯信鈔』で言われているのです。「利智精進にあらずといへども」とは、智慧もなく精進の心もなくて、資質が劣り怠慢の心の者も、専修専心の信心を得れば往生できると心得なさいということです。

タグ:親鸞を読む
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