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聖道と浄土 [はじめての『尊号真像銘文』(その129)]

(6)聖道と浄土

 先のところで聖道門は漸教にして難行とし、対する浄土門を頓教にして易行と特徴づけたのをうけて、それをより具体的に述べるのがこの部分です。まず聖道門について、真言宗・天台宗の行は「さるのこころのごとく」落ち着かないわれらには修しがたく、三論宗・法相宗の教は「うし・ひつじのまなこ」のわれらは惑うばかりだと言います。それに対して浄土門は、「乃至十声一声称念すれば、無上菩提にいたる」のだから、「智慧もなく、精進の身にもあらず、鈍根懈怠のものも」信心と念仏さえあればかならず往生できると言うのです。
 聖道門と浄土門の区別は道綽からはじまり善導へ、そして法然へと受け継がれ、法然はその『選択集』の冒頭に「道綽禅師、聖道・浄土の二門を立てて、しかも聖道を捨てて正しく浄土に帰するの文」をおくというように、浄土の教えの根幹をなすものとして伝承されてきました。親鸞も聖道・浄土を区別するという伝統を重んじるのですが、ただ親鸞の場合はそれまでの区別の仕方と微妙に違うように感じます。道綽がこの区別を持ち出した根拠はその末法史観にありました。末法の世となると「智慧もなく、精進のみにもあらず、鈍根懈怠のもの」ばかりとなり、もはや聖道門の難行は通用しなくなるということです。かくして易行の浄土門の時代となったのだと。
 親鸞もそのことを否定するわけではありませんが、それよりも聖道と浄土を分けるものとして自力と他力の対を重視します、自力聖道門と他力浄土門というように。
 末法史観を軸におきますと、時代とともに機が劣化していくから、法もそれに対応していかなければならないということですから、仏法そのものが時代とともに別のものに変化(劣化?)していくかのような印象を与えることになります、上等な聖道門と下等の浄土門というように。『歎異抄』第12章に「念仏はかひなきひと(甲斐性のないひと)のためなり、その宗あさしいやしといふとも」と出てきますが、そんなふうに浄土門が貶められる結果となるのです。しかし親鸞にはそんな自己卑下は微塵も見られず、聖道門と浄土門がまったく別の仏教とみているようにも思えません。

タグ:親鸞を読む
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