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ひとつの真理をどう語るか [はじめての『尊号真像銘文』(その130)]

(7)ひとつの真理をどう語るか

 では親鸞にとって聖道・浄土を分けるものは何かと言いますと、先ほど述べましたように自力と他力ということになるのですが、自力聖道門・他力浄土門とはいっても同じ仏教に違いなく、ただ「語り方」が異なるだけです。
 繰り返し述べてきたことですが、大事なことですので、あらためて確認しておきますが、ぼくらが真理とよぶものに「こちらからゲットする真理」と「むこうからゲットされる真理」があります。普通に真理とよばれるもののほとんどすべては前者の「こちらから出かけていってゲットする真理」ですが、それとは別に「むこうからやってきてわれらをゲットする真理」があります。そしてぼくらが救われるのはこの「むこうからやってきてわれらをゲットする真理」によってであり、「こちらからゲットする真理」は束にしてもぼくらを救うことはできません。救いはこちらからゲットすることはかなわず、むこうから救ってもらうしかないということです。
 さて、むこうからやってきた真理に思いがけなくゲットされるという経験は「こころもおよばず、ことばもたへたり」(『唯信鈔文意』)と言わなければならないでしょうが、でもそれは大いなる喜びですから、こころの中にとどまっていることができず、何とかしてことばにして人に伝えたいという思いがわきあがってくるに違いありません。で、そのときの語り方に二種類あります。ひとつは「ノンフィクションの語り」です。これはごく当たり前の、現実にあることをあるがままに語るということですが、ただしかし「こころもおよばず、ことばもたへた」ことを現実のこととして語るのですから、そこにはきわめて大きな困難が待ち受けています。
 釈迦が悟りをひらいたと言われるのは、釈迦がむこうからやってきた真理にゲットされたということに違いありませんが、そのとき釈迦はそれを人に伝えるのを躊躇したといいます。それはおそらく「こころもおよばず、ことばもたへた」ことを現実のこととして語ることの困難に直面したということでしょう。どのように語っても分かってもらえるはずがないと思えたのではないでしょうか。

タグ:親鸞を読む
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