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争わない [はじめての『尊号真像銘文』(その135)]

(12)争わない

 それに「真理はひとつであり、それを知った人は争わない」と言うが、真理はひとつだからこそ、それを知った人は誤っていることを説く人たちを批判するのではないか、とも思います。釈迦はいったいこのことばで何を言わんとしているのでしょう。ここでまたもやあの区別を持ち出さなくてはなりません。「こちらからゲットする真理」と「むこうからゲットされる真理」の区別です。
 ぼくらが真理ということばで頭に思い浮かべるのは「こちらからの真理」(文字数節約のための略)です。ぼくらは日々、何が正しく、何が誤っているのか、あるいは、何が善く、何が悪いのか、さらには、何が美しく、何が醜いのかと思い惑っています。こちらから真理をゲットしようとしているのです。そしてそのとき、あることがらに関して真理はひとつしかないと思っています。そうでなければ悪しき相対主義の中で世のなかが混乱してしまうでしょう。こんなふうに「こちらからの真理」については「あれもこれも」ではなく「あれかこれか」ですから、そこに争いがおこるのは必然です。
 さてしかし釈迦が真理と言っているのは「むこうからの真理」ではないでしょうか。釈迦が求めていたのは、それが救いそのものである真理であり、それは「むこうからの真理」でしかありません。救いはこちらから手に入れるものではなく、むこうから与えられるしかないからです。そして「むこうからの真理」は文字通りひとつだけです。「こちらからの真理」も、あることがらに関してはひとつしかありませんが、でもことがらの数だけの真理があります。しかし「むこうからの真理」はただ救いということがらに関する真理ですから、正真正銘ひとつだけです。
 さて「真理はひとつである」として、問題は「それを知った人は争わない」のはなぜかということです。「こちらからの真理」を巡っては「あれかこれか」の争いがおこるのは必然なのに、なぜ「むこうからの真理」については争わないのか。

タグ:親鸞を読む
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