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本文31 [はじめての『尊号真像銘文』(その137)]

(14)本文31

 「誠知無明長夜之大燈炬也何悲智眼闇(じょうち むみょうじょうやしだいとうこや がひちげんあん)」といふは、「誠知」はまことにしりぬといふ。弥陀の誓願は無明長夜のおほきなるともしびなり。なんぞ智慧のまなこ闇しと悲しまんやとおもへとなり。「生死大海之大船筏也豈煩業障重(しょうじだいかいしだいせんばつや きぼんごっしょうじゅう)」といふは、弥陀の願力は生死大海のおほきなる船・筏なり。極悪深重の身なりとなげくべからずとのたまへるなり。「倩思教授恩徳実等弥陀悲願者(せんし きょうじゅおんどく じつとうみだひがんしゃ)」といふは、師主のをしへをおもふに、弥陀の悲願に等しとなり。大師聖人(源空)の御をしへの恩おもくふかきことをおもひしるべしとなり。「粉骨可報之摧身可謝之(ふんこつかほうし さいしんかしゃし)」といふは、大師聖人の御をしへの恩徳のおもきことをしりて、骨を粉にしても報ずべしとなり。身をくだきても恩徳を報ふべしとなり。よくよくこの和尚(聖覚)のこのをしへを御覧じしるべしと。

 「まことに知りぬ、無明長夜の大いなる燈炬なり、なんぞ智眼の闇きことを悲しまん」とは、「まことに知りぬ」は、まことに知ったということで、弥陀の誓願は無明長夜を照らす大きなともし火だから、どうして智慧の眼が暗いと嘆くことがあろうかと言うのです。「生死大海の大いなる船筏なり、あに罪障の重きを煩はんや」とは、弥陀の本願の力は生死の大海を渡す大きな船だから、自分は極悪深重の身だと嘆く必要はないということです。「つらつら教授の恩徳をおもうに、実に弥陀の悲願に等しき者」とは、師主の教えを思うと、弥陀の悲願に等しいから、大師聖人の教えの恩の深いことを思い知るべきだと言うことです。「骨を粉にしてこれを報ずべし、身を摧きてこれを謝すべし」とは、大師聖人の教えの恩徳の重きを知り、骨を粉にしてしてもこれに報じ、身を砕いても報いなければならないということです。この聖覚和尚の教えをよくよく御覧になり知らなければなりません。

タグ:親鸞を読む
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