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智眼くらし [はじめての『尊号真像銘文』(その138)]

(15)智眼くらし

 聖覚の文の最後のところです。ここには耳になじんだ名文句がいくつも出てきます。ひとつは「無明長夜の大燈炬(だいとうこ)」と「生死大海の大船筏(だいせんばつ)」。もうひとつは「骨を粉にしてこれを報ずべし、身を摧きてこれを謝すべし」。親鸞はこれらをもとに二首の和讃をつくっています(『正像末和讃』)。「無明長夜の燈炬なり、智眼くらしとかなしむな、生死大海の船筏なり、罪障おもしとなげかざれ」。「如来大悲の恩徳は、身を粉にしても報ずべし、師主知識の恩徳も、ほねをくだきても謝すべし」(これは浄土真宗において「恩徳讃」として親しまれているものです)。
 ここでは前の和讃の「智眼くらし」と「罪障おもし」の対に注目したいと思います。聖覚の文のすぐ前のところでも「破戒罪根之輩」と「下智浅才之類」とが対にされていました。「愚かであること」と「罪が深いこと」はひとつながりであるということですが、それは何を意味するのでしょう。先に『スッタニパータ』を参照しましたが、今度は『ダンマパダ』から釈迦のことばを引いてみます(「ダンマ」は「法」、「パダ」は「ことば」で、「真理のことば」という意味です)。「もしも愚者がみずから愚であると考えれば、すなわち賢者である。愚者でありながら、しかもみずから賢者と思う者こそ、愚者だと言われる」(中村元訳『真理のことば・感興のことば』)。
 ソクラテスの「無知の知」を思い出します。彼は無知を自覚することが人間として最高の知であると考えましたが、釈迦も同じことを言っているのです。
 「悪人正機」の悪人とは己を悪人と自覚しているもののことです。誰彼のことを客観的に善人であり悪人であるというのとは別です。たとえ自分以外のすべての人から「おまえは悪人だ」と言われようと、本人に悪人の自覚がありませんと、その人は(「悪人正機」の意味での)悪人ではありません。そして己を悪人と自覚したときはじめて、本願名号の世界が目の前に広がるのであるということ、それをこの「悪人正機」ということばは述べています。
 釈迦が「己を愚者であると自覚したものが賢者である」と言うのも同じ趣旨で、己を愚者であると自覚してはじめて、智慧の眼がひらかれるということです。

タグ:親鸞を読む
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