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罪障おもし [はじめての『尊号真像銘文』(その139)]

(16)罪障おもし

 己を愚者であると自覚するというのはどういうことか。それを釈迦は『ダンマパダ』でこんなふうに言っています、「『わたしには子がある。わたしには財がある』と思って愚かな者は悩む。しかしすでに自己が自分のものではない。ましてどうして子が自分のものであろうか。どうして財が自分のものであろうか」と(同)。ここから釈迦は愚かさとは、何ものかを「わがもの」とみなして、それに執着することであると見ているのが分かります。そして釈迦はそれが愚かである理由として、すでに自己そのものが「わがもの」ではないのに、どうして子や財が「わがもの」だろうかと言うのですが、ここはじっくり考えなければなりません。
 まず自己そのものが「わがもの」ではないとはどういうことでしょう。
 こんな場面を想像してみましょう。自分に直接関係する大切なことが、自分のあずかり知らぬところで勝手に決められ、それが一方的に告知されるようなことがありますと、自分が蔑ろにされたと感じて不快な気分になります。この「自分が蔑ろにされる」という感覚の背景に、自己そのものを「わがもの」としていることがあります。「わがもの」としての自己が否定され無にされていることに怒りを感じているのです。これが自己を「わがもの」とすることですが、ぼくらは多少の差はあれ、この感覚の中で生きています。それが当たり前であり、そうでなければならないと思っています。
 ところが釈迦はそうではなく、自己は「わがもの」ではないと言うのです。どういうことでしょう。
 「わがもの」としての自己とは他から規定されない独立自存の存在ということですが、そんなものはどこにもないというのが釈迦の基本的なスタンスです。『ダンマパダ』のこの箇所ではそれ以上展開されることはありませんが、仏教の根本とされる「縁起」は、この世の中のどこにも他から独立して自存する実体はひとつもないということです。みな他とのつながり(縁)のなかにあり、またつながりのなかで生じているというのです。「これあるに縁りてかれあり」です。

タグ:親鸞を読む
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