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愚と罪 [はじめての『尊号真像銘文』(その140)]

(17)愚と罪

 こんなふうに、自己そのものが「わがもの」でないのに、まして子や財が「わがもの」であるはずがないと釈迦は言います。まず自己という「わがもの」があるから、それにくっつくように子や財というもろもろの「わがもの」があるのですから、元の「わがもの」がない以上、それに付随するもろもろの「わがもの」もありようがないということです。ところがぼくらは、あれもこれも「わがもの」と考え、それに執着している。これが愚かさの正体であると言うのです。
 このように愚かさの正体に気づいた人は、もう愚かではありません。この世界は何ごとも「これあるに縁りてかれあり」という縁のつながりのなかにある以上、これは「わがもの」であると執着するのは愚かであると気づいたのですから。ただしかし「わがもの」に執着するのは愚かであると気づいたからといって、「わがもの」に執着しなくなるわけではありません。これが夢から覚めるのと違うところで、「わがもの」のマインド・コントロールから覚めても、これまでと同じように「わがもの」に執着し、それが蔑ろにされますと無性に腹が立ちます。
 しかし「わがもの」に執着することの愚かさに気づく前と気づいた今とでは、こころのありようが変化しています。これまでは「わがもの」への執着は当たり前であり、むしろ執着しない方がおかしいと思っていたのが、今ではその愚かさに気づいていますから、執着心を抑制しようという方向にこころが動きます。ところがその愚かさに依然として気づかないままですと、執着心をますます亢進させることになり、それがさまざまな罪障のもとになります。何より大切な自己が蔑ろにされますと、無性に腹が立ちますし、また大事な「わがもの」が奪われでもしたら、もう身も世もなく嘆くことになり、敵愾心を懐くことにもなるでしょう。
 かくして愚かであることと、罪が深いことが底で繋がっていることが了解できます。煩悩の根っこに愚痴(無明)があるとされるのももっともなことです。

                (第10回 完)

タグ:親鸞を読む
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