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名号のリレー [はじめての『尊号真像銘文』(その144)]

(4)名号のリレー

 第17願と第18願をつなぐ輪は聞名にあります。諸仏の称名と衆生の称名とが聞名を媒介としてつながれるのです。ぼくらは名号というと称名だけを思い、称名には聞名が先立つことを忘れてしまいがちですが、『大阿弥陀経』の第4願はその聞名をはっきりとうち出してくれています。では『大経』には聞名は出てこないのかというと、そんなことはありません。第18願にはありませんが、その成就文に「その名号を聞きて(聞其名号)、信心歓喜し」とうたわれていますし、四十八願のなかに、第20願をはじめとして12もの願に聞名が登場します。
 そして聞名とは信心に他なりません。聞くことは信じることであると親鸞はいくども教えてくれています。聞いて、その聞いた内容を信じるのではありません。聞こえたことそのものが取りも直さず信じたということです。無音室に入って聴力検査を受けるとき、ヘッドホンから音が聞こえた時すかさずボタンを押しますが、ボタンを押す前から音はしていたはずです。ところがそれが一向に聞こえないのですが、あるときふいに音が聞こえて慌ててボタンを押す。そのように、あるとき思いもかけず名号が聞こえることが名号を信じるということです。「賜りたる信心」と言いますのは、名号がむこうからやってきてわれらに届けられるということです。
 このように諸仏の称名が衆生の称名へとつながるのは、そこに聞名すなわち信心が媒介しているからです。諸仏の称える名号がわれらに聞こえ、その喜びがわれらの称名となってまた誰かに届けられるということですが、ここで考えたいのは、諸仏とわれら衆生との関係についてです。何度も言いますように、われらの称名には聞名が先立ちます。まず諸仏の称名があり、しかる後にわれらの称名があるというこの順序はものごとの根本で絶対忘れていけないことです。ただしかし、われらが称える名号は、また他の誰かにリレーされ、かくして世界の隅々まで広がっていくのですから、称名をするわれらは諸仏と同じはたらきをしていることになります。

タグ:親鸞を読む
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