SSブログ
はじめての『尊号真像銘文』(その146) ブログトップ

往生がはじまる [はじめての『尊号真像銘文』(その146)]

(6)往生がはじまる

 繰り返しになりますが、まず諸仏の称名があり(第17願です)、それを聞かせてもらったわれら衆生がまた称名をするのであり(第18願です)、われらから言いますと、まず聞名、しかる後に称名となるというこの順序を忘れることはできません。念仏はわれらが称えるより前にむこうから聞こえてくるものであるということ、これは何度でも言わなければなりません。さてしかし、われらの称名は、他の誰かにとっての聞名となるわけで、その点から言えば、われらもまた諸仏とおなじはたらきをしていることになります。そこからすれば信心の人は「諸仏とひとし」と言えるということです。
 『教行信証』を読み始めてから長い間よく分からなかったのが、行巻に第17願が掲げられていることでした。行巻というからには、「われらの念仏」のことが説かれるはずなのに、どうして「諸仏称名の願」が持ち出されるのか。むしろ第18願こそ行巻にふさわしいのではないか。第18願は伝統的に「念仏往生の願」とされ、往生の業としての念仏が説かれているのだから、と疑問に思い続けていたのです。しかし、かなりの時間がかかりましたが、ようやく視界が開けてきました。ぼくは念仏というものはわれらがこちらから称えるものであるとかたく思い込んでいたのです。そう思っている限り、どうして第17願が「われらの念仏」の願になるのか分かるはずがありませんでした。
 しかし念仏はわれらが称えるより前にむこうから聞こえてくるものだと気づきますと、第17願の意味が一気に明瞭になり、そして諸仏の称名とわれらの称名とがひとつづきのものであることが明らかになります。もう諸仏もわれら衆生もなく、世界の隅々まで南無阿弥陀仏の声が満ち満ちることになります。これが信心の人は「諸仏とひとし」ということです。さてここからしましても「信心のさだまるとき往生またさだまる」(『末燈鈔』第1通)ということばの意味を取り違えることはないでしょう。「往生さだまる」とは、ただ往生の切符をもらうということではなく、すぐさま往生の旅がはじまることに他なりません。信心のときに、往生し終わったのではなくとも、もうすでに往生ははじまっているのです。

タグ:親鸞を読む
nice!(1)  コメント(0) 
はじめての『尊号真像銘文』(その146) ブログトップ