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本文33 [はじめての『尊号真像銘文』(その147)]

(7)本文33

 如来所以興出世 唯説弥陀本願海  如来、世に興出したまふゆゑは、ただ弥陀の本願海を説かんとなり。
 五濁悪時群生海 應信如来如実言  五濁悪時の群生海、如来如実の言(みこと)を信ずべし。

 釈迦をはじめとする多くの如来がこの世に出でたもうたのは、ただただ弥陀の本願を説くためです。
 この穢れと悪に満ち満ちた時代に生きるわれら一切衆生は、まさに如来の真実のことばを信じるべきです。

 「如来所以興出世(にょらいしょいこうしゅっせ)」といふは、諸仏の世にいでたまふゆゑはと申すみのりなり。「唯説弥陀本願海(ゆいせつみだほんがんかい)」と申すは、諸仏の世に出でたまふ本懐は、ひとへに弥陀の願海一乗のみのりを説かんとなり。しかれば『大経』には、「如来所以興出於世(にょらいしょいこうしゅつおせ)、欲拯群萠恵以真実之利(よくじょうぐんもうえいしんじつしり)」と説きたまへり。「如来所以興出於世」は、「如来」と申すは、諸仏と申すなり。「所以」といふは、ゆゑといふみことなり。「興出於世」といふは、世に仏出でたまふと申すみことなり。「欲拯群萠」は、「欲」といふは、おぼしめすとなり。「拯」は、すくはんとなり。「群萠」は、よろづの衆生をすくはんとおぼしめすとなり。仏の世に出でたまふゆゑは、弥陀の御ちかひを説きてよろづの衆生をたすけすくはんとおぼしめすとしるべし。「五濁悪時群生海應信如来如実言(ごじょくあくじぐんじょうかい おうしんにょらいにょじつごん)」といふは、五濁悪世のよろづの衆生、釈迦如来のみことをふかく信受すべしとなり。

 「如来、世に興出したまふゆゑは」とは、諸仏が世に出られた訳はということです。「ただ弥陀の本願海を説かんとなり」と言いますのは、諸仏が世に出られた本懐は、ただひたすら弥陀の本願の教えを説くことだということです。という訳で『大経』に「如来、世に興出したまふゆゑは群萠を拯ひ、恵むに真実の利をもってせんと欲してなり」と説かれているのです。「如来、世に興出したまふゆゑは」の如来とは諸仏ということです。所以とは、ゆえということばです。「世に興出したまふ」とは、世に仏がお出ましになるということです。「欲拯群萠」の欲とは、お思いになるということです。拯は、救おうということで、群萠は、あらゆる衆生ですから、欲拯群萠であらゆる衆生を救おうとお思いになるということです。仏が世にお出ましになるのは、弥陀の本願を説いて、あらゆる衆生を救おうとお思いになるからだということです。「五濁悪時の群生海、如来如実の言を信ずべし」とは、五濁悪世のあらゆる衆生は、釈迦如来の教えを深く信じなさいということです。

タグ:親鸞を読む
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