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日の下に新しきものなし [はじめての『尊号真像銘文』(その148)]

(8)日の下に新しきものなし

 本願の教えの行・信・証についての4句につづいて釈迦を讃える偈がはじまりますが、その最初の4句は「諸仏の世にいでたまふ本懐は、ひとへに弥陀の願海一乗のみのりをとかむとなり」ということばに集約できます。さてこのことばは何を言わんとしているのでしょう。釈迦をはじめとする諸仏は何か目新しい真理を説いたのではなく、ただただ弥陀の本願を説いたのであるということ。したがって仏教とはつまるところ本願念仏の教えに他ならないということです。
 真理はひとつしかなく、それは本願念仏の教えであるという大胆な宣言と言えます。ここで真理と言っていますのは、それに気づくことが救いであるような真理のことです。世に無数の真理があるとしても、人に救いをもたらす真理はただひとつ、「日の下に新しきものなし」(『旧約聖書』「伝道の書」)です。さてしかし、人に救いをもたらす真理はひとつであり、それが弥陀の本願念仏であるなどと言えば、周りから非難の嵐が巻き起こるのではないかと心配されるかもしれません。
 そもそも人を救う真理はひとつしかないのはどうしてかと言われるでしょう。キリスト教徒はキリスト教の真理で救われ、イスラム教徒はイスラム教の真理で救われるというように、さまざまな真理が救いをもたらしているのではないのでしょうか。
 救いをもたらす真理という言い方をしてきましたが、この言い方に混乱のもとがあるようです。これでは真理と救いは別で、真理を得るという原因によって救いという結果がもたらされるような印象を与えますが、そうではなく、真理があると気づくことそのものが救いなのです。何度も言ってきましたように、この真理はわれらがゲットするのではなく、真理がわれらをゲットするのです。われらは真理にゲットされるのであり、それが取りも直さず救われるということです。
 このように真理と救いは一体不離ですから、救いがひとつならば真理もひとつしかありません。

タグ:親鸞を読む
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