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本文34 [はじめての『尊号真像銘文』(その151)]

         第12回 煩悩を断ぜずして涅槃を得る

(1)本文34

 能発一念喜愛心 不断煩悩得涅槃  よく一念喜愛の心を発すれば、煩悩を断ぜずして涅槃を得るなり。
 凡聖逆謗斉廻入 如衆水入海一味  凡聖・逆謗斉しく回入すれば、衆水海に入りて一味なるがごとし。

 本願の招喚が聞こえ、喜びのこころから念仏申さんと思い立つとき、煩悩をもったまま涅槃の境地にはいることができます。
 凡夫も聖人も、五逆罪を犯したものや仏法を謗るものも、みな本願の海に入ってしまえば、さまざまな河の水が海に入ると同じ味になるように、何の違いもありません。

 「能発一念喜愛心(のうほついちねんきあいしん)」といふは、「能」はよくといふ。「発」はおこすといふ、ひらくといふ。「一念喜愛心」は、一念慶喜の真実信心よくひらけ、かならず本願の実報土に生るとしるべし。「慶喜(きょうき)」といふは、信をえてのちよろこぶこころをいふなり。「不断煩悩得涅槃(ふだんぼんのうとくねはん)」といふは、「不断煩悩」は煩悩をたちすてずしてといふ。「得涅槃」と申すは、無上大涅槃をさとるをうるとしるべし。「凡聖逆謗斉廻入(ぼんしょうぎゃくほうさいえにゅう)」といふは、小聖・凡夫・五逆・謗法・無戒・闡提(せんだい)みな回心(えしん)して、真実信心海に帰入しぬれば、衆水の海にいりてひとつ味はいとなるがごとしとたとえたるなり。これを「如衆水入海一味(にょしゅすいにゅうかいいちみ)」といふなり。

 「能く一念喜愛の心を発すれば」の「能」はよくということ、「発」はおこすということ、ひらくということです。「一念喜愛の心」とは、一念慶喜の真実信心がよくひらけると、必ず本願の真実の浄土に往生できるということです。「慶喜」とは、信心をえて後に喜ぶ心を言います。「煩悩を断ぜずして涅槃を得るなり」の不断煩悩とは、煩悩を断ち捨てないでということで、得涅槃とは、この上ない涅槃を悟ることができるということです。「凡聖・逆謗斉しく回入すれば」と言いますのは、小聖・凡夫・五逆・謗法・無戒・闡提(悟りを求める心がなく成仏できないもの)も回心して真実信心の海に入れば、あらゆる河の水が海に入って同じ味になるようなものだとたとえているのです。「衆水海に入りて一味なるがごとし」というのは、そういう意味です。

タグ:親鸞を読む
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