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「われ」という壁 [はじめての『尊号真像銘文』(その154)]

(4)「われ」という壁

 さて後半二句で、涅槃のひかりに遇うことができると「衆水海に入りて一味なるがごとし」と言います。涅槃のひかりに遇うまでは、やれ小聖だ、凡夫だ、五逆だ、謗法だ、無戒だ、闡提だと細かく切り刻んでは、やれ上だ、下だと区別立てをしてきたのですが、本願の海に入ってしまいますと、「一切の有情はみなもて世々生々の父母兄弟」(『歎異抄』第5章)であるということです。
 ひるがえって現代世界のありようを眺めてみますと、いたるところに壁が立てられています。いま世界を席巻しているトランプ現象の本質は「壁をつくる思想」にあると言えるでしょう。「われ」と「われにあらざるもの」とをはっきりと区別して、その間に高い壁をつくろうという思想。対する仏教は「衆水海に入りて一味」であるとし、「みなもて世々生々の父母兄弟」とみて、壁をなくそうとする思想です。
 あらためて仏教の基本に立ち返りますと、釈迦はあらゆる苦しみのもとには我執があると言いました。我執とは「われ」という壁をつくり、その内側に「わがもの」をため込もうとする執着心です。これが貪欲・瞋恚・愚痴という煩悩の正体であり、ぼくらはみなこの我執という病におかされています。今しがた、仏教とは「われ」という壁をなくそうとする思想だと言いましたが、「われ」という壁をなくそうとするには、まずもってその壁をつくることが病であり、それがあらゆる苦しみのもとであると気づくことが必要です。
 さてしかし、「われ」という壁をつくることが病であることは、生まれてこのかたずっとこの病の中にある以上、自分で知ることはできません。何度も言うようで恐縮ですが、生まれてこのかた光の差さない深海で暮らす魚たちは、自分が闇の中にいることを自分で知ることは逆さになってもできません。彼らにはそこがただひとつの世界であり、それ以外に世界はないのですから。同じように、生まれてこのかた我執という病の中で暮らすぼくらは、自分が我執という病の中にいることを自分で知ることは天地がひっくり返ってもできません。

タグ:親鸞を読む
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