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壁をつくらない思想 [はじめての『尊号真像銘文』(その155)]

(5)壁をつくらない思想

 ぼくらにとって「われ」という壁をつくって生きることが当たり前であり、それ以外の生き方をしたことがないのですから、それが病であるなどと自分で知るはずはありません。むしろ周りに「われ」という壁をつくって生きることがうまくできない人がいれば、その人は人間としての肝心な能力の欠ける人と蔑まれることになります。トランプ流の「壁をつくる思想」とは、互いに「われ」という壁をいかにうまく築くかを競いあう思想です。
 一方、仏教は「われ」という壁をつくることを人間のもっとも根源的な病とみて、できるだけ壁をつくらないようにしようとする思想です。しかし繰り返し言いますように、「われ」という壁をつくるのが病であることは自分で知ろうとして知ることができるわけではなく、あるときふと気づかせてもらうのです、「あゝ、これまでずっと我執という病の中にあったのか」と。そしてこの気づきは涅槃のひかりに遇うことではじめて得られますから、我執の気づきは涅槃の気づきを伴うということです。「あゝ、これまでずっと我執の病にあった」という気づきは、「あゝ、これまでずっと涅槃のひかりのなかにあった」という気づきとともにあるのです。
 このようにして、涅槃のひかりの中で「衆水海に入りて一味なるがごとし」となるのですが、ここで忘れてならないのは、涅槃のひかりに遇うことで「われ」という壁が消えるわけではないということです。消えるどころか、涅槃のひかりに照らされることでむしろ「われ」という壁がくっきり浮かび上がります。これまで意識せずに、無邪気に「われ」という壁を生きてきたのですが、いまはじめてそれが意識の前面に映し出されるのです。そしてここから、できるだけ壁をつくらないようにしようという思いが生まれてきます。釈迦は『ダンマパダ』でこう言っています、「すべて悪しきことをなさず、善いことを行い、自己の心を浄めること、―これが諸の仏の教えである(漢訳:諸悪莫作、諸善奉行、自浄其意、是諸仏教)」と。
 「諸悪莫作、諸善奉行」とは、できるだけ「われ」という壁をつくらないように生きるということです。

タグ:親鸞を読む
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