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本文35 [はじめての『尊号真像銘文』(その156)]

(6)本文35

 摂取心光常照護 已能雖破無明闇  摂取の心光、つねに照護したまふ。すでによく無明の闇を破すといへども、
 貪愛瞋憎之雲霧 常覆真実信心天  貪愛瞋憎の雲霧、つねに真実信心の天に覆へり。
 譬如日光覆雲霧 雲霧之下明無闇  たとえば日光の雲霧に覆はるれども、雲霧の下あきらかにして闇なきがごとし。

 弥陀の心光は、常にわれらを照らし護ってくださいます。その光に気づかせていただき、われらのこころの闇は晴れましたが、
 だからと言って、貪りや愛欲、怒りや憎しみから遁れたわけではありません。いつも煩悩の雲や霧がかかり、真実の信心の空を覆っています。
 それはちょうど日の光が雲や霧に覆われていても、その下は明るく闇がないようなものです。

 「摂取心光常照護(せっしゅしんこうじょうしょうご)」といふは、信心をえたる人をば、無碍光仏の心光つねに照らし護りたまふゆゑに、無明の闇はれ、生死のながき夜すでに暁になりぬとしるべしとなり。「已能雖破無明闇(いのうすいはむみょうあん)」といふは、このこころなり。信心をうれば暁になるがごとしとしるべし。「貪愛瞋憎之雲霧常覆真実信心天(とんないしんぞうしうんむ じょうふくしんじつしんじんてん)」といふは、われらが貪愛・瞋憎を雲・霧にたとへて、つねに信心の天に覆へるなりとしるべし。「譬如日月覆雲霧雲霧之下明無闇(ひにょにちがつふくうんむ うんむしげみょうむあん)」といふは、日月の雲・霧に覆はるれども、闇はれて雲・霧の下あきらかなるがごとく、貪愛・瞋憎の雲・霧に信心は覆はるれども、往生にさはりあるべからずとしるべしとなり。

 「摂取の心光、つねに照護したまふ」と言いますのは、信心を得た人を、無碍光仏の心光が常に照らし護ってくださいますから、無明の闇が晴れて、生死の長い夜が明けてすでに暁となったようだと言うのです。「すでによく無明の闇を破すといへども」というのは、そういう意味です。信心を得れば暁になったようだと言うのです。「貪愛瞋憎の雲霧、つねに真実信心の天に覆へり」と言いますのは、われらの貪愛瞋憎を雲や霧にたとえて、それがいつも信心の天を覆っているのだと言うのです。「たとえば日光の雲霧に覆はるれども、雲霧の下あきらかにして闇なきがごとし」と言いますのは、太陽や月の光が雲や霧に覆われても、その下は闇が晴れて明るいように、信心が貪愛瞋憎の雲や霧に覆われても、往生に障りはないということです。

タグ:親鸞を読む
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