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ときをへず日をへだてずして [はじめての『尊号真像銘文』(その161)]

(11)ときをへず日をへだてずして

 親鸞の正信偈20句の最後の2句です。この前の6句は信心を得た人の上にも貪愛瞋憎の雲霧がどんよりとかかっているという内容でしたが、この2句はそれと対照的に、信心歓喜すれば「生死の大海をやすくよこさまにこえて、無上大涅槃のさとりをひらく」と詠います。このように、信心のひと=正定聚は、一方では、すでに「涅槃を得ることにさだまり」、「仏とひとしい」のですが、他方では、「この身のあしきことをばいとひすてんと」し、「もとあしかりしわがこころをもおもひかへ」さなければなりません。このふたつが同時という微妙な境遇にあるのです。
 「信をうる人はときをへず日をへだてずして正定聚のくらゐにさだまる」ということばに注目しましょう。親鸞は第18願成就文に「かの国に生ぜんと願ずれば、すなはち往生をえ、不退転に住す(願生彼国、即得往生、住不退転)」とあるのを、「信をうる人はときをへず日をへだてずして正定聚のくらゐにさだまる」と解しました。「すなはち往生を得(即得往生)」とは正定聚(かならず仏となる身)となることであるとし、それは信心をえたそのときであると理解したのです。
 親鸞はこのことをさまざまなことばで語っていますが、なかでもいちばんよく知られているのが「弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて、往生をばとぐるなりと信じて、念仏まうさんとおもひたつこころのをこるとき、すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり」(『歎異抄』第1章)でしょう。ここで「摂取不捨の利益」とあるのが正定聚となることに他なりません。またこういうことばもあります、「信心のさだまるとき往生またさだまる」(『末燈鈔』第1通)と。「往生またさだまる」とは正定聚となることであり、信心のさだまったそのときに往生がはじまるということです。
 このいわゆる現生正定聚こそ親鸞にとって肝とも言うべきものですが、これがしかし思いがけず親鸞浄土教を歪めるもとともなります。

タグ:親鸞を読む
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