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涅槃への旅人 [はじめての『尊号真像銘文』(その162)]

(12)涅槃への旅人

 あらためて伝統的な浄土教と親鸞浄土教を対比しておきましょう。伝統的な浄土教においては、あらゆるものごとの焦点が臨終にありました。臨終において正念をたもち念仏することにより弥陀の来迎にあずかってめでたく往生をとげることができるのですから、それまでの人生はすべてそのための準備と言ってもいい感じです。かくしていつ臨終が来てもいいように備えるべしと教えられてきたのです。それに対して親鸞浄土教においては信心のときに焦点があてられます。信をえて「ときをへず日をへだてずして正定聚のくらゐにさだまる」のですから、信をえるかどうかですべてが決します。
 そこから、臨終のときに人生が終わるように、信心をえたときに正定聚となり人生が終わってしまうかような感覚になることがあります。「上がり」の感覚と言えばいいでしょうか、もうそれ以上なにもすることがない。しかし親鸞にとっての正定聚はそんな空虚なものではないでしょう。親鸞自身の証言によりますと、「愚禿釈の鸞、建仁辛酉(かのとのとり)の暦、雑行を棄てて本願に帰す」(『教行信証』後序)とあり、1201年、親鸞29歳のときに正定聚となったわけですから、それから90歳で亡くなるまでもう何もすることがない余生であるなどとは考えられません。
 正定聚になるとは「上がり」どころか、それからほんとうの人生がはじまるということです。
 親鸞としては「本願に帰」して6年後の35歳のとき、承元の法難で越後流罪となり、その赦免後も常陸の国で念仏生活を送ることになりますが、そうした念仏生活こそ正定聚としてのほんとうの人生であったと言わなければなりません。日々ふりかかってくるさまざまな課題にどう対処していくべきかを模索しながら、しかし同時に、もうどんなことがあっても涅槃からそれることはないという安心の生活を送る。これが涅槃への白道を歩む旅人・親鸞の姿です。

                (第12回 完)

タグ:親鸞を読む
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