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親鸞の手紙を読む(その2) ブログトップ

第1段 [親鸞の手紙を読む(その2)]

(2)第1段

 4段に分けて読んでいきます。まずその第1段。

 来迎は諸行往生にあり。自力の行者なるがゆゑに。臨終といふことは諸行往生のひとにいふべし、いまだ真実の信心をえざるがゆゑなり。また十悪・五逆の罪人のはじめて善知識にあうて、すすめらるるときにいふことなり。真実信心の行人は、摂取不捨のゆゑに正定聚(しょうじょうじゅ)の位に住す。このゆゑに、臨終まつことなし、来迎たのむことなし。信心の定まるとき往生また定まるなり。来迎の儀則をまたず。

 (現代語訳)「阿弥陀仏のご来迎を待って往生する」という考えの本質は、諸行往生、つまり「さまざまな善き行いにより往生する」ということにあります。それは自力の立場であるがゆえの考えです。また「臨終こそ肝心である」という考えも、この諸行往生の立場の人に当てはまります。いまだ真実の信心を得ていないからです。また『観無量寿経』にありますように、十悪・五逆の罪人が臨終にはじめてよき師に出会い、念仏を薦められることに関連して言われることです。真実の信心の人は、阿弥陀仏の光の中におさめとられ、もはや捨てられませんから、すでに正定聚の位にあるのです。ですから、臨終を待つことはありません、来迎をたのむこともありません。信心が定まった時、すでに往生が定まっているのです。来迎の儀式を待つ必要はありません。

 いきなり親鸞浄土教の核心に切り込み、この短い文により親鸞他力思想のエッセンスが取り出されています。
 重要なことばの意味を確認しておきましょう。まず「諸行往生」。自らの力でさまざまな善き行いをすることにより浄土へ往生しようとすることで、それに対するのが念仏往生です。ただこれも自ら念仏することにより、その功績で往生しようとするのでは諸行往生と同じになります。弥陀の本願他力により往生させていただく、これが念仏往生です(それがどういうことかはこれからおいおい明らかになっていきます)。つぎに「十悪・五逆」。人間の悪を数え上げるもので、殺生・偸盗・邪婬・妄語(うそいつわり)・両舌(二枚舌)・悪口(あっく)・綺語(きご、かざりたてたことば)・貪欲・瞋恚・愚痴が「十悪」、殺父・殺母・殺阿羅漢・出仏身血(仏を傷つける)・破和合僧(教団の和合を破る)が「五逆」です。

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