SSブログ
親鸞の手紙を読む(その3) ブログトップ

臨終まつことなし [親鸞の手紙を読む(その3)]

(3)臨終まつことなし

 ことばの解説の三つ目として「摂取不捨」。弥陀の光明が念仏の衆生をおさめ取って捨てないということで、『観無量寿経』に「一々の光明は、あまねく十方世界を照らし、念仏の衆生を摂取して捨てたまはず」とあるのがもとです。そして最後に「正定聚のくらゐ」。かならず仏となることがさだまった位のことで、『無量寿経』の第11願成就文(第11願が成就したことを述べる文)に「かのくにに生るるものは、みなことごとく正定の聚に住す」と出てきます。
 さてこの第1段は第18願成就文の「かの国に生ぜんと願ずれば、すなはち往生をえ、不退転に住す(願生彼国、即得往生、住不退転)」をどう理解するかに関係します。親鸞はこの文に浄土教の核心があると見て、これを「信心のさだまるとき往生またさだまる」と読んだのですが、この読み方はそうすんなり受け入れられるものではありません。親鸞以前の伝統的な浄土教では、往生がさだまるのは臨終のときであると考えられてきたからです。本願を信じ念仏すれば臨終に弥陀の来迎にあずかり、浄土へ往生することができるとするのが伝統的な浄土教です。
 この伝統的な往生観では、すべてが臨終の一点にかかっています。臨終に正念を保ち弥陀の来迎にあずかることができるかどうか。あずかることができれば「めでたし、めでたし」となりますが、もしあずかることができなければまた生死輪廻をやり直さなければなりません。そんなことにならないよう、日ごろから気を緩めることなく念仏を忘れないようにしなければならない。みんなそのように思ってきたのですが、そんななかで親鸞は「臨終まつことなし、来迎たのむことなし」と言うのですから、その落差の大きさに多くの人が戸惑ったことと思われます。
 往生は臨終のときにさだまるのか、それとも信心のときにさだまるのか。この違いのもとは信心のありようにあります。

タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問
親鸞の手紙を読む(その3) ブログトップ