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本願を信じるとは [親鸞の手紙を読む(その4)]

(4)本願を信じるとは

 本願を信じるには違いがないのですが、その信のありようが問題です。われらが信をゲットするか、それとも信がわれらをゲットするかの違いです。
 何かを信じると言うとき、そのほとんどの場合、相手を吟味した上でみずから「信じてよし」とゴーサインを出します。これが、われらが信をゲットしたということです。弥陀の本願についても、経典を読んだり、善き師の話を聞いたりして、これを信じてもいいかどうかをじっくり吟味し、その上で「よし、信じよう」と決断するとき、われらが弥陀の本願への信をゲットしています。そのことを、われらが本願をゲットしたと約めて言うこともできるでしょう。
 では、信がわれらをゲットするとはどういうことか。これは何かが向こうからやってきて、気がついたらそれにわれらが鷲づかみされていたということです。
 これはどこからか美しいメロディが流れてきて、気がついたらもうそれに取り込まれていたという経験に似ています。こちらがそのメロディを受け入れるか拒絶するかを選ぶ間もなく、もうすでに入り込んでいます。これは、われらがそのメロディを受け入れたのではなく、むしろそのメロディがわれらを受け入れたと言うべきでしょう。弥陀の本願も、どこからかやってきて、気がついたときにはもうそれに取り込まれています。否も応もなく、勝手に入り込んでいる。われらが本願を受け入れたのではなく、むしろ本願がわれらを受け入れたのです。本願がわれらをゲットした。
 われらが本願をゲットするか、それとも本願がわれらをゲットするか。この違いが、往生は臨終のときにさだまるのか、それとも信心のときにさだまるのかを決定します。
 われらが本願をゲットするとはどういうことかといいますと、本願(第18願)には「心をいたし信楽して、わがくににむまれんとおもふて、ないし十念せん。もし生まれずば正覚をとらじ」とありますから、この「若不生者、不取正覚」という誓いを堅く信じて疑わないということです。さてこの場合、往生がさだまるのはわれらが本願をゲットしたとき(信心のとき)でしょうか、それとも臨終のときでしょうか。

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