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信心のとき往生の旅がはじまる [親鸞の手紙を読む(その5)]

(5)信心のとき往生の旅がはじまる

 われらが本願をしっかり吟味した上で、それを信じるという場合(われらが本願をゲットする場合)、どれほどその信が堅いといっても一抹の不安が残ります。信じるわれらと信じられる本願の間にどれほどわずかであっても隙間があり、そこに疑いが忍び込むのです。往生はまず間違いないと思うものの、天地がひっくり返っても確かというわけにはいきません。「本願を信じ念仏をまうす」ことを怠らないよう心しながらも、これでもう大丈夫という思いになれない。往生がさだまらないのです。
 かくして往生がさだまるのは臨終の来迎までお預けとなります。
 では本願がわれらをゲットするときはどうでしょう。そのときにはわれらと本願はひとつで、そこにどんな隙間もありませんから、疑いの入り込む余地がありません。気がついたときにはもうすでに本願のなかにいるのです。そのとき信心はさだまり、往生もさだまったと言わなければなりません。信心がさだまることによって、往生がさだまるのではありません。信心がさだまることが、そのまま往生がさだまることです。逆に、往生がさだまらないということは、信心がさだまっていないということに他なりません。
 往生がさだまるとは、往生がはじまるということです。往生という旅は信心のときにはじまるのです。その旅の終着点は臨終のときでしょうが、その出発点は信心のときです。ところがしばしばこの「往生がさだまる」ということばは、往生が臨終のときにはじまることに決まったと受けとられます。たしかに「さだまる」ということばは、未来のことがいま決まるという意味でつかわれます。たとえば「結婚がさだまる」とは、結婚することに決まったということで、実際に結婚するのはまだ先のことです。
 さてしかし、ほんとうに結婚がさだまりますと、そのときから住む家の選定など、実際の結婚に向けての準備がはじまります。これは、もう結婚という旅が実質的にはじまったということです(逆に、まだきっちりとは結婚がさだまらず、おそらく結婚するだろう程度でしたら、結婚に向けての準備もまだはじまらないでしょう)。同じように、往生がさだまるとは、往生が実質的にもうすでにはじまったということに他なりません。身はまだ穢土にいても、こころはすでに浄土にあるのです。

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