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「これから」の色 [親鸞の手紙を読む(その8)]

(8)「これから」の色

 さて親鸞は「他力のなかの自力」として「定心と散心(定善と散善)」を上げます。これは善導が『観無量寿経』を注釈するなかで用いているキーワードで、定心についてこう言います、「定はすなはち慮(おもんぱか)りを息(や)めてもって心を凝らす」(『観経疏』「玄義分」)と。心をあれこれと働かせることなく、一点に集中させるということです。一方、散心については、「散はすなはち悪を廃してもって善を修(しゅ)す」(同)と言います。心をひとつに止めることなく、「諸悪莫作、衆善奉行」につとめることです(定心は出家の行、散心は在家の行と考えればいいと思います)。
 いずれにしても、「この二行を廻(え)して往生を求願せよ」(同)とありますことから、こちらから往生をゲットしようとはからうことであるのが分かります。「臨終まつことと来迎往生といふことは、この定心・散心の行者のいふことなり」と親鸞が言うのは、定心と散心によりこちらから往生をゲットしようとしても、往生はいつまでもさだまることなく、臨終を待ち来迎をたのんではじめて往生が確かなものになるということです。
 先ほどは「隙間」という言い方をしました(5)。信じるわれらと信じられる本願(あるいは往生)との間に隙間があり、そこに「ほんとうだろうか」という疑いが忍び込むことから、往生がさだまらないのだと。今度はそれを「これから」という観点から見てみましょう。
 こちらから何かをゲットするときには、どこまでも「これから」という色がついてまわります。何かをゲットしてやろうとして動き出すのですから、どうしても「これから」のことになるのです。大金をゲットしたとか、恋人をゲットしたとか、過去形や完了形で言うことはいくらでもあるじゃないかという反論が出るかもしれませんが、大金や恋人はゲットしようとしてゲットしたのですから、ゲットしようとしている時点では「これから」のことです。そして首尾よくゲットしてしまってからも、それをなくさないよう気をつけていなければならないという意味では、ゲットし続けなければならないわけで、どこまでも「これから」の色はぬぐえません。

タグ:親鸞を読む
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