SSブログ
親鸞の手紙を読む(その14) ブログトップ

自力と他力 [親鸞の手紙を読む(その14)]

(14)自力と他力

 他力が真であるのに対して、自力は仮と言ってきましたが、ここは慎重でなければなりません。他力が真であることに気づいてはじめて、自力が仮であることが明らかになるのであって、まだ他力に気づいていない人には自力は仮であるどころか、一切が自力であり、自力でないことなどどこにもありません。これまで繰り返し述べてきましたように、他力に気づく前(事前)と、それに気づいた後(事後)をはっきり区別することが是非とも必要です。親鸞が、他力が真であり、自力は仮であると言うのは、あくまで事後のことで、事前にはそもそも他力などどこにもありませんから、すべては自力です。
 いや、厳密に言いますと、他力に気づいていないのですから、すべては自力であると言うこともできません。他力に気づいた人が、まだ気づいていない人のことを「ただひたすら自力の世界を生きている」と言えるだけです。まだ光に遇っていない深海魚にとって、自分の居るのは光の世界でないのはもちろん、闇の世界でもありません。いまだ光でも闇でもない世界に居るのです。不運にも人間に掴まえられ、光の世界に連れ出されてはじめて「あゝ、闇の世界にいたのか」と気づきます。同じように、他力に遇ってはじめて「そうか、これまで自力の世界にいたのだ」と気づくのです。
 まだ他力に遇ったことのない人が、弥陀の本願力で浄土に往生することができるという話を聞いたら、「弥陀の本願力って何のこと?」と思い、「浄土ってどこにある?」と思うのはごく自然なことです。わけの分からないものがあると言われたら、「それは何?」、「どこにある?」と問うのはぼくらの本性であり、それができない人は生きていくことがきわめて困難でしょう。謎があれば、こちらからそれに向かって行き、その正体をゲットしようとするのはあまりにも当たり前のことです。そしてそれが自力ということであり、かくしてぼくらの世界はすみずみまで自力の世界です。
 これが定散二善で、こちらから往生をゲットしようとしています。これはベクトルが逆さまであり、的外れであるのですが、だからといって偽として捨て去ることはできません、それに代わるものがないのですから。代わりがない以上、当面は(他力に気づくまでは)それでやっていくしかありません。これが仮ということです。

                (第1回 完)

タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問
親鸞の手紙を読む(その14) ブログトップ