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修諸功徳と至心信楽 [親鸞の手紙を読む(その18)]

(4)修諸功徳と至心信楽

 ここであらためて第19願と第18願を比べておきましょう。
 第19願 「たとひわれ仏をえたらんに、十方の衆生、菩提心をおこし、もろもろの功徳を修し、心をいたし発願してわがくにに生ぜんとおもはん。寿終のときにのぞんで、たとひ大衆(だいしゅ)と囲繞して、そのひとのまへに現ぜずといはば正覚をとらじ」
 第18願 「たとひわれ仏をえたらんに、十方の衆生、心をいたし信楽してわがくににむまれんとおもふて、乃至十念せん。もしむまれずば正覚をとらじ」
 相違点が二つ見えてきます。ひとつは前者の「もろもろの功徳を修し(修諸功徳)」に対するに後者の「心をいたし信楽して(至心信楽)」。ここから親鸞は前者を「修諸功徳の願」となづけ、後者を「至心信楽の願」となづけています。もうひとつは前者が臨終に来迎を受けるとするのに対して、後者はただ「むまる」と言うだけという点です(後者についてはその成就文で、より詳しく「かのくにに生ぜんと願ずれば、すなはち往生をえ、不退転に住す」と言います)。二点目は第1通のテーマでしたが(臨終往生か即得往生か)、ここで問題となるのは一点目の「修諸功徳」か「至心信楽」かの違いです。
 「修諸功徳」は自力で「至心信楽」は他力ということですが、前半は実に分かりやすいのに対して後半が厄介です。
 そもそも自力は誰しも水や空気のごとく当たり前のものとしてなじんでいますから、それについて了解するのは何でもないのですが、他力の方は、それに遇ってしまえばそれまでなのに、まだ遇ったことがない人にとっては何とも厄介なしろものです。自分がまだ経験したことがないことがら、しかもそれが自分のこれまでの常識とはおよそかけ離れたものごとについて、それを経験した人からさまざまに言われてもたやすく了解できるものではありません。で、どうするかと言いますと、その未体験のことがらを自分の常識の範囲内にあることばに置き換えようとします。そもそもぼくらは手持ちのことばの範囲内でしか理解できませんから、そうするより外に手はありません。
 かくして他力について自力のことばで理解しようとするのです。

タグ:親鸞を読む
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