SSブログ
親鸞の手紙を読む(その19) ブログトップ

自力のことばと他力のことば [親鸞の手紙を読む(その19)]

(5)自力のことばと他力のことば

 第18願の「至心信楽」は他力の信であると言われても、まだ他力に遇ったことがありませんと、それを自力のことばで理解するしかありません。「信じる」というのは、自力のことばでは「こちらから信を与える」ということです。これは信じるに値するからこちらから信を与えよう―これが「信じる」ということであり、これ以外に受けとりようがないのです。しかし他力の信とは「むこうから信を与えられる」ということです。気がついたらもう信のなかにいたということ。あるいは、これまでしばしばつかってきた言い回しでは、われらが信をゲットするのではなく、信がわれらをゲットするのです。
 さあしかし、むこうから信を与えられるとか、信がわれらをゲットするといった言い方はまだ他力に遇ったことがない人にとっては謎のことばです。こちらから信を与える、われらが信をゲットするということばしか知らないのですから、むこうから信を与えられるとか、信がわれらをゲットすると言われても、いったい何のことかと戸惑うばかりです。そもそも「むこうから」とは何なのか。「こちらから」しか知らない人にとって、「むこうから」も自力のことばで理解するしかありません。「むこうから」ということを、たとえば子どもが親にねだって何かをもらうことのように理解するのです。これはしかし子どもが「こちらから」せしめることに他ならず、他力の「むこうから」ではありません。
 ことばというものはもともと自力用につくられていますから、どれもこれもみな自力のことばです。したがって、他力の事実をいいあらわすにも、自力のことばを借りるしかなく、ことが厄介になるのです(曹洞禅が「不立文字」と言うのも、そこからきているに違いありません。ことの実相をことばであらわすことはできない、だから、ただ坐れ、坐って体得せよということでしょう)。では他力の事実をあらわすのにことばは役立たないのかと言えば、そうとも言えません。他力の「むこうから」をいいあらわすには、たしかに「論理のことば」では困難ですから、おのずから「物語のことば」をつかわなければならなくなります。それが法蔵菩薩の物語です。

タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問
親鸞の手紙を読む(その19) ブログトップ