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親鸞の手紙を読む(その20) ブログトップ

第2段本文 [親鸞の手紙を読む(その20)]

(6)第2段本文

 第2段に進みます。

 しかれば、わが身のわるければ、いかでか如来迎へたまはんとおもふべからず。凡夫はもとより煩悩具足したるゆゑに、わるきものとおもふべし。またわがこころのよければ、往生すべしとおもふべからず。自力の御はからいにては真実の報土へむまるべからざるなり。「行者のおのおのの自力の信にては、懈慢(けまん)・辺地(へんじ)の往生、胎生疑城の浄土までぞ往生せらるることにてあるべき」とぞ、うけたまはりたりし。第十八の本願成就のゆゑに阿弥陀如来とならせたまひて、不可思議の利益きわまりましまさぬ御かたちを、天親菩薩は尽十方無碍光如来とあらはしたまへり。このゆゑに、よきあしき人をきらはず、煩悩のこころをえらばず、へだてずして、往生はかならずするなりとしるべしとなり。しかれば、恵心院の和尚は、『往生要集』には、本願の念仏を信楽するありさまをあらはせるには、「行住坐臥をえらばず、時処諸縁をきらはず」と仰せられたり。「真実の信心をえたる人は摂取のひかりにおさめとられまいらせたり」と、たしかにあらはせり。しかれば「無明煩悩を具して安養浄土に往生すれば、かならずすなはち無上仏果にいたる」と、釈迦如来説きたまへり。

 (現代語訳) ですから、わが身は悪いから如来は迎えとって下さらないだろうなどと思ってはいけません。凡夫というのは元々煩悩にまみれているのですから、悪いものと思うべきです。また逆に、わが心は善いから往生できると思ってはいけません。自分のはからいで真実の浄土へ往けるものではないのです。「それぞれの人の自力の信心では、せいぜい懈慢・辺地や胎生・疑城という仮の浄土へ往けるだけ」と承っております。第十八願が成就したことにより阿弥陀如来となられて、極まりのない不可思議の利益をお与えくださるその形を、天親菩薩は尽十方無碍光如来と言い表してくださいました。ですから、善人も悪人も関係なく、煩悩が渦巻く心にも関係なく、必ず往生できるのだと知るべきです。こんな訳で、恵心院の和尚・源信は『往生要集』の中で本願の念仏を信心するさまを表して「行住坐臥に関係なく、時ところを選ぶことなく」と言われました。「真実の信心を得た人はみな弥陀の摂取の光におさめとられている」と確かに言われているのです。ですから「無明や煩悩のまま浄土に往生すれば、必ず無上の悟りに至るのです」と釈迦如来が説かれています。

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