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よきあしき [親鸞の手紙を読む(その21)]

(7)よきあしき

 第1段で、第18願の「至心信楽(他力の信)」により往生できると説いた後、「しかれば」ときます、わが身の善し悪しを思い煩うことはない、と。わが身が善ければ往生でき、悪ければ往生できないということではなく、ただ「他力の信」がありさえすればいいというのです。わが身が善ければ往生でき、悪ければ往生できないというのは、第19願の「修諸功徳」の立場です。わが身の善し悪しに応じて往生がさだまるとしますと、「余の善根を修行」するとともに、「身口意のみだれごゝろをつくろい、めでたうしなして」往生しようとなるのは必然です。これは「こちらから」往生をゲットしようとする「自力の信」であることは言うまでもありません。
 決定的なことばが「凡夫はもとより煩悩具足したるゆゑに、わるきものとおもふべし」です。凡夫は「もとより」わるきものであるということ。
 「おもふべし」とありますが、これはそう思わなければならない、ということではないでしょう。わが身はわるきものであると思わなければならないというのは、そう思うことによってはじめて「身口意のみだれごゝろをつくろい、めでたう」することができるからであり、それは依然として、わが身が善ければ往生でき、悪ければ往生できないという「修諸功徳」の立場にあります。わが身をかえりみて、言われるように「わるきもの」であると自覚することはできるでしょう。でもそのときは、わるきこころを「つくろい、めでたう」することができると思っています。
 親鸞が言うのは、凡夫は「もとより」わるきものであるということで、それを自分で「つくろい、めでたう」することなどできるものではないということです。わが身は「もとより」わるきものであることをこちらから知ることはできません。「つくろい、めでたう」することができる程度にはわるきものであると知ることはあるでしょうが、もう如何ともしがたくわるきものであると自分で思い知ることはできません。自分に引導を渡すことはできないということです。引導はむこうから渡されるしかありません。
 しかしどうしてそんなことが言えるのか。

タグ:親鸞を読む
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