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グーの音も出ない [親鸞の手紙を読む(その22)]

(8)グーの音も出ない

 自分に引導を渡すということは、「わたし」を全否定するということですが、それを「わたし」がすることはできません。「わたし」が「わたし」を部分的に否定することはできるでしょう、「わたし」のこの部分には問題があると。しかし「わたし」のすべてを否定することはできません。これは「無我」という仏教の根本テーゼを考えることではっきりします。「『わたし』はない」と言うのは誰でしょう。それが「わたし」であることはできません。デカルトが「われ思う、ゆえにわれあり」というのはそのことです。「『わたし』はない」と思った途端に、そう思っている「わたし」がそこにいます。
 としますと「『わたし』はない」とはただのナンセンスでしょうか。とんでもありません。仏教はこのテーゼの上に成り立っているのであり、ここには紛れもない真実があります。ただ、この真実はわれらが「こちらから」ゲットするものではなく(そうすることにはどうしようもない障碍があります)、この真実が「むこうから」われらをゲットするのです。われらは気がついたときにはこの真実にゲットされ、すでにそのなかにいます。「無我」は「こちらから」知ることはできません、「むこうから」気づかされるしかないのです。
 「わが身は『もとより』わるきもの」についても同じことがいえます。ここには否定しようのない真実がありますが、この真実をわれらが「こちらから」ゲットすることはできず、この真実が「むこうから」われらに迫ってきて、われらをゲットしてしまうのです。気がついたときにはこの真実にゲットされ、もうグーの音もでません。「凡夫はもとより煩悩具足したるゆへに、わるきものとおもふべし」の「おもふべし」はこの意味です。「むこうから」否応なく思い知らされ、もうグーの音も出ないということです。
 そしてそのとき、「摂取のひかりにおさめとられまいらせたり」と気づくのです。「わが身は『もとより』わるきもの」と思い知らされるのと、「摂取のひかりにおさめとられまいらせたり」と気づくことはひとつです。このように機の深信と法の深信は本質的にひとつですが(したがって本質的に同時ですが)、実際の気づきでいいますと、まず機の気づきがあり、そして法の気づきがくるという順番になります。かくして「行住坐臥をえらばず、時処諸縁をきらわず」に「真実の信心をえたる人は摂取のひかりにおさめとられまいら」せるのです。

タグ:親鸞を読む
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