SSブログ
親鸞の手紙を読む(その23) ブログトップ

第3段本文 [親鸞の手紙を読む(その23)]

(9)第3段本文

 第3段です。

 しかるに、「五濁悪世のわれら、釈迦一仏のみことを信受せんことありがたかるべしとて、十方恒沙(ごうじゃ)の諸仏、証人とならせたまふ」と、善導和尚は釈したまへり。「釈迦・弥陀・十方の諸仏、みなおなじ御こころにて、本願念仏の衆生には、影の形に添へるがごとくしてはなれたまはず」とあかせり。しかれば、この信心の人を、釈迦如来は、「わが親しき友なり」とよろこびまします。この信心の人を真の仏弟子といへり。この人を正念に住する人とす。この人は、摂取して捨てたまはざれば、金剛心をえたる人と申すなり。この人を上上人とも、好人とも、妙好人とも、最勝人とも、希有人とも申すなり。この人は正定聚の位に定まれるなりとしるべし。しかれば、弥勒仏とひとしき人とのたまへり。これは真実信心をえたるゆゑに、かならず真実の報土に往生するなりとしるべし。この信心をうることは、釈迦・弥陀・十方諸仏の御方便よりたまはりたるとしるべし。しかれば、「諸仏の御おしえをそしることなし。余の善根を行ずる人をそしることなし。この念仏する人をにくみそしる人をも、にくみそしることあるべからず。あはれみをなし、かなしむこころをもつべし」とこそ、聖人(法然)はおほせごとありしか。あなかしこ、あなかしこ。
 
 (現代語訳) しかし「濁りきった悪世に生きるわれらは、釈迦仏のことばだけでは信じて受け入れることは難しいかもしれないと、十方の無数の諸仏がその証人となられたのだ」と善導和尚は解説してくださいました。「釈迦や弥陀、そして十方世界の仏がたがみんな心をひとつにして、本願念仏を信じる衆生にかげがかたちにそうように離れずつきそってくださる」と明らかにしてくださったのです。ですから、この信心の人を、釈迦如来は「わが親しき友」と喜ばれるのです。この信心の人を「真の仏弟子」と言います。また「正念に住する人」とも言います。この人を弥陀如来は摂取して捨てられませんから、「金剛心をえた人」と言います。この人を「上上人」とも、「好人」とも、「妙好人」とも、「最勝人」とも、「希有人」とも言います。この人は「必ず仏になる位」に定まったと心得るべきです。ですから「弥勒仏とひとしい人」と言われます。真実の信心を得たのですから、必ず真実の浄土に往生できると知るべきです。この信心を得ることは、釈迦如来や弥陀如来、そして十方世界の諸仏のお力で与えられたものと知るべきです。ですから、諸仏の教えを謗ることはありません、他の修行をしている人を謗ることもありません。念仏をする人を憎み謗る人をも、憎み謗ることがあってはなりません。そのような人をむしろ哀れみ、悲しむ心をもつべきだと法然上人はおっしゃいました。謹言。

タグ:親鸞を読む
nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:学問
親鸞の手紙を読む(その23) ブログトップ